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「とまと」の独り言

白菫

いつまでも大人になれない自分へ
それでももがいて生きている

これまで育て、支えてきてくれた家族へ
感謝と謝罪でいっぱいです

寄り添ってくれるあなたへ
憧れです

何度も苦しいと思った
それでも隣に誰かいてくれたことが救いでした
一人では生きていけない世界
今度は私が役に立ちたい

できることはまだあるだろうか


1 私は「とまと」

私は無職です。

自己紹介がてら私の話をすることをご了承くださいませ。

私は、現在無職の、姉の家で居候しているものです。私が居候するに至った経緯をご説明致します。

私はごく平凡な家庭に生まれ、幸運にも愛情いっぱいに育てられ、ほどほどの容姿とほどほどの性格を手に、ほどほどの学歴を重ねてきました。私は順調に人生を積み重ねていたと思います。
家族との関係は良好で、人間関係に悩みながらも友人に恵まれ、いたって普通。そんな中、「普通」に慣れきってしまった私は、「普通」に幸せを感じることができなくなっていました。
友人や家族との関係はさほど悪くはなかったものの、私の中にはいつも、「誰も自分を理解してくれない」という想いがありました。自分を理解することは愚か、相手の理解もできていない私が、傲慢にもそんな想いを抱いていたなんて、お恥ずかしい限りです。

大学を卒業し、新入社員として晴れて社会人となった私は、初めて生まれ育った故郷を離れ、一人暮らしを始めました。
学生の頃の私は、社会人という大人の世界に少なからず憧れと不安を抱いていました。しかし、実際の「社会人」の姿は、私の想像したものと程遠いものでした。アルバイトもさほどしたことのなかった私にとって、「働く」という行為そのものがプレッシャーで、その責任に押しつぶされそうでした。
自分で事をこなさなくては何も始まらない現状に、新人の私は絶望したのを覚えています。私は社会を知りませんでした。その頃の私には、「無知」という言葉がよく似合っていると思います。(とは言っても、今の私もまだまだ無知ではあるのですが…笑)
それまでの私は知らないことがあっても人に尋ねることが苦手でした。それでも日々不自由なく過ごせていたのですから、答えを率先して教えてくれる人が周りにいたのだと思います。気づかぬ間に助けられ、図々しくも感謝さえ忘れていたのです。
しかし、そんな日々も「社会」という大きな世界に出ると、通用しなくなるものなのです。人に尋ねることの知らない私は、混乱しました。
混乱しながらも少しずつ、ですが確実に、私も順調に、「尋ねる」ことにも慣れていきました。
しかし、慣れてはいくものの、ひどく疲弊するようになった私は、助けを必要としていました。
虚しくも私は助けを求めることもできませんでした。求める術を知らなかったのです。これまでぬくぬくと過ごせていた私は、助けを必要とする前に、誰かに助けられていたことを知りませんでした。だから、求め方を知らなかったのです。これには応えました。
もちろん何をするのも初めての職場に頼るものはなく、配属先の田舎には、私の知り得る居心地の良い場所なんてありませんでした。同僚や同期は愚か、これまで関わっていた人との交流はほとんどと言っていいほどありませんでした。
寂しがりやの私にとっては、これはたいそうな痛手です。あの頃の私には「孤独」しかありませんでした。仕事が休みの日にすることはなく、何をやっても面白くありません。愚かにも、平凡な時間に魅力を感じることができませんでした。
「孤独」を飼い慣らすことを知らなかった私は、何を血迷ったか、不要に人と合う日々を送りました。何かを求めて、もしかしたら、どこか居場所を求めていたのかもしれません。「助けて」と言えない代わりに、寂しさを埋めるものを探していたのでしょう。
それでも、どんなに人に会っても、どんなに身体が満たされても、どんなに優しくされても、私の「孤独」はどこにも行ってくれませんでした。「孤独」がいなくなることなんてないのかもしれませんが…

「孤独を飼い慣らす」という言葉は、よく言ったものだと思うのです。どんな人にでも存在する感情。人と会い、話をし、充実した時間を過ごしている人にでも「孤独」を感じることがあると言います。そのどうしようもない感情を人は「飼い慣らす」という言葉を使って簡単そうに感情を完結させるのです。

私にはその「孤独」をどうすることもできなかった。それが私の最大の弱点でした。空虚なものを感じながらも、手に負えず、私はただひたすら癒しを求めました。求めた先は、最も簡単に繋がることの出来る人たちでした。相手の素性も、相手の過去も、相手の思考も、相手の価値観さえも理解しなくていいのです。
ただ、お互いが「寂しい」という感情を抱いていればいいのです。「虚無感を抱いている」その共通点だけがお互いを引きつけ合って意気投合したかのように感じるのです。不思議なもので、その中ではお互いの感情や素性を知ろうとすることはタブーです。知ろうものなら引きつけ合っていたものが簡単に切れてしまうのです。

初めてその世界に足を踏み入れた私は、そんなことなど知らずに、一喜一憂していました。その傷心は、新しい誰かを求めることでしか、「孤独」を埋めることができなかったのです。そうやって感情を麻痺させることで、自分を保っていたのだと思います。
私はこの世界の深く深くまで沈んでいきました。

ある朝自分のベッドで目を覚ましました。

静かな朝でした。

仕事に行こうと準備を始めようとしていました。(この世界に足を踏み入れても、仕事は休まず順調だったと思います。)

最初、私は自分が泣いていることに気が付きませんでした。頬をつたう涙のこそばゆさで頬を掻いた時、手に冷たさを感じました。

「あ、私は泣いている。」

そう思った途端私の感情は爆発しました。私は既に限界を迎えていたのだと思います。声をあげて、子どもが泣くように、絵に描いたような鳴き声でひたすら泣いていました。

過呼吸になり、正気が戻ってきた時、私は自分でも危機感を覚えたのでしょう。上司に電話をしました。何という理由で休みますという言葉を言ったかはもう覚えていません。体調がすぐれないとでも言ったのだと思います。
泣き止むことができませんとは口が裂けても言えませんでしたから。

その日から、私は仕事を休むようになりました。

静かな部屋で一人、ベッドから起きない日々が続きました。ベッドに横たわっていると仕事のことが頭をよぎりました。これまでさほど苦しさは感じていませんでした。それでもなぜか、いつか誰かが言った言葉を思い出し、私のしたことや終わらせることができていないことを思っては自分の不甲斐なさを痛感しました。
何もしていないのに涙はこれでもかと溢れてきました。自分の中にこんなに水分があったのかと思うほど。涙を拭うことも諦めていましたが、頬の涙は自然に乾きました。頬に残った塩分でヒリヒリとするのがわかりました。
実際、そんなことはどうでもよかったのです。
流れ出る鼻水をかむと元々弱かったのもあり、鼻血が出ました。
その時は、鼻血なんてどうでもよかったのです。
過呼吸になってもどうでもよかったのです。
いっそのことこのまま呼吸が止まってしまえとさえ思うほどに、私は壊れてしまっていました。それでも自分では解決策を、自分を救う術を知りませんでした。

ただ覚えた方法は一つでした。
ついこの間見つけた、この怪しげな、でも魅力的で刺激的な世界。
この最も簡単に入っていける世界にはまっていくことでした。
私がどっぷりとこの世界に染まり、抜け出せなくなった頃でした。

私はある人に出会いました。(電話だけで繋がっていた私たちなので、私がその人と直接会うことはこれから先もなさそうに思えてならないのですが、)
その人は他の誰よりも私の心の異常さに警告を出してくれました。「病院いきな。」その一言が私を救いました。これ以上一人でいたら、危なかったかもしれません。
その人の言葉で私は人生で初めて精神科を受診しました。

「精神科」。この響きはこれまでの人生であまり身近ではありませんでした。ましてや自分が通うことになるとは思ってもみませんでした。これでも福祉系の仕事をしていたので、特に負のイメージなどは持っていませんでしたが、別世界の存在だと思っていました。

私は幸運にも一つ目の病院で長くお世話になりました。個人で経営しているような比較的小さな病院だったと思います。
私のこの状態に先生は名前をつけました。
私は自分のことを変だと思っていても、これは私の落ち度であり、弱いからだとしか考えきれませんでした。「私の異常さに先生が病名をつけた」それでどれだけ救われたでしょうか。
私は病気だったのだと少し安堵したのを覚えています。「あなたは病気」と断定されることがこんなにも私にとって必要だったとは思いもしませんでした。

それからは病院に通う日々が始まりました。週に一回先生に自分の異常さを話すのが、一番の安心した時間になりました。
私はこれからいい方向に向かっていくと思っていました。しかしながら、そう簡単にはいかないことを思い出さされました。

私はどっぷり使った世界にいながら、薄い人間関係を築いてきたつもりでした。深追いせず、深追いされず、ただ「来るもの拒まず、去るもの追わず」の精神で日々を過ごしてきたつもりでした。
しかし、この魅力的で刺激的な世界で、不覚にも私は失脚してしまいました。

ある日ある男性に会ってしまったのです。

その時はこんなにも彼に魅了されるとは思ってもいませんでした。私の壊れた心を最も簡単に修復し、最も簡単に壊してしまう人でした。
でも、人は不思議なことに、そんな人にほど執着してしまうのです。

彼はほどほどの容姿とほどほどの性格に、しっかりとした常識を兼ね備えた人でした。陽気で自然とグループの真ん中にいながら、周囲を笑顔にする、そんな人なんだと思います。休みの日に出かけようと誘ってくれる、そんな一面が私にとっては心地よかったのです。

これまで私がこの世界で出会ったのは、ただ欲求を満たすだけの人たちでした。しかし、彼に会って初めて、これが普通なのだと知りました。私にとっては一風変わった彼に、少し惹かれてしまったのでしょう。
私は「この人はいい人なのかも。」と少しだけ影の見え隠れする彼を、横柄ながら気になり始めてしまいました。私は彼をもっと深く探ってみたいと思ってしまったのです。

この関係に相互理解などは必要ないことは重々承知のはずでした。
これは痛恨のミスです。

最初の頃、彼は私に触れることは少なかったと思います。「手を繋ぐ」それくらいのことだけだったと思います。彼と深く関わるようになったのは、毎週のように会い、いろんな場所に行き、楽しい時間を共有した後でした。
彼との時間が、私にとって心安らぐ時間になった頃でした。
いつものようにお出かけをした後、日が沈みかけていたと思います。彼との時間が終わってしまうのに寂しさを覚えた私は、 「帰りたくない。」と言ってしまったのです。彼は拒みませんでした。そのまま私たちは彼の家に着きました。
彼の腕の中で眠りについてしまいました。彼の温もりを知った私は、もう救いようがありません。
彼に忠告されたのを覚えています。
深い関係にはならないと。
承知のはずでした。
しかし、私にはもう手遅れでした。

そんな日々の中、彼から転勤の話を聞かされました。以前から転勤のある職場で働いていることは知っていましたが、私は身勝手にも、会える場所にいて、会える人であると過信していました。
彼の転勤の話は、不安定な私にとって、心の折れてしまう話でした。彼のいない世界に生きる希望がないとさえ思えました。それほどまでに、彼の存在は私にとって大きなものになってしまっていたのだと思います。
元々自傷癖のあった私は、何度も剃刀を手に自分の腕を切り裂きました。彼が止めてくれた時もありましたが、誰の助けもない時の私を、自分では止めることができませんでした。

「寂しさ」だけが共通点であって、間違っても浅い関係のままであって、簡単に繋がる反面、簡単に切れてしまう関係であるだけの私たちでした。そんなことはよく分かっていました。この世界に沈んだ私ですから、痛いほど知っていました。
それなのに、私は彼のことを私の中に入れ込んでしまっていました。
忘れたくない存在として。

遂に彼は遠い地へと去っていきました。
彼が去った後の私は、これまで以上に悲惨だったろうと思います。
彼との思い出に浸りながら、私は部屋で一人、涙を流しました。自分ではどうにもできない事態に対応することができませんでした。腕の傷は癒える前に新しい赤みができ、消えることはありませんでした。
でもどうでもよかったのです、痛みも感じないほどに。

ある夜、私は自分の部屋にあるお酒と服用中の薬を見つめながら、正気の沙汰ではない考えに至りました。
生きる目的がなくなった私がとった行動は、「自殺」でした。
あるだけの薬(おそらく200粒ほどあったと思います。)を白ワインと共に喉に押し込みました。何度も嗚咽しながら、それでもただひたすら薬を口に運びました。半分ほど飲んだでしょうか。吐き気に耐えきれず、泣きながらトイレへと駆け込んだと思います。
その時、自分は死ねないことを悟りました。
こんなにも辛いのにどうして生きていかなければならないのか。
何度も吐き気を覚えながらそんなことを思っていました。
そして、トイレの前にうずくまり、また剃刀を握るのです。
何度も何度も腕に刃を向けました。
どんなに切っても痛くなかったのを覚えています。

持っていたタオルが赤く染まり、また吐き気が襲ってきた時、私はヒリヒリと腕が疼くのを感じました。腕の痛みを感じるようになってようやく私は剃刀を床に置きました。
そして気絶するように、私は眠りにつきました。

朝、私は吐き気で目が覚めました。
何もしたくない
ただ吐き気だけが私を襲いました。
血が滲んだ腕に、少しの痛みを覚えました。

私が助けを呼んだのは、薄情にも彼ではありませんでした。以前会った、私と同じような経験をした人でした。その人は私を好いてくれていたのだと思います。ただただ私に優しかったのです。その人は、2日ほど吐き気に襲われ動けなかった私をそっと支えてくれました。私はその人の優しさに甘えてしまいました。一時だけ。
しかし、彼を忘れることができなかった私は、その人の温もりに友情以上の愛情を感じることができませんでした。どんなに忘れようとしても私の中に居座り続ける彼に、その人は勝てませんでした。いや、私が勝たせなかったのかもしれません。

私が家族に現状を話したのは、そんな時だったと思います。何も頼るものも、依存するものも無くなった時、最後の砦として頼ったのは、やはり家族でした。それまで頑なに隠していたのですが、自分で命を絶とうと思った時、一人で決めてしまったことに罪悪感を覚えたのがきっかけだったと思います。
最初に話したのは姉でした。少しして両親に話しました。家族は私を咎めたりなんてしませんでした。
ただ、私の話を聞いて、
ただ、「辛かったね。」「痛かったね。」と。
それまで私は、自傷行為や仕事を休んでいることが、恥ずべきものだと思って、実際に恥じていました。しかし、家族が私を咎めることなく、ただそれだけの言葉をかけてくれたのです。最初は呆気に取られました。予想外でした。
今になってやっと、認めることも受け止めることもできなかったのは、自分自身なのだと気づきました。
強い私を見ていてほしかった。
私はできると思っていてほしかった。
ただ褒めて、認めてほしかった。
そんな陳腐な理由で、私は家族に相談すらしませんでした。
それでも家族は、そんなことはお見通しのように、ただ私を受け入れるのです。
私は改めて家族の愛に感動しました。

ですが、残念なことに、家族に話しても何も解決しないのは事実です。

私の心は傷ついたままで、
私の体は汚れたままで、
私の腕は傷だらけのままで、
それでも味方がいることは、少なからず私にとっては支えになりえました。

家族や先生の協力のもと、私は仕事を辞め、その地を去る決断をしました。この地で私は、さまざまな人に出会い、想い、考え、これまでにない経験をしたのだと思います。自分にとっての苦しみでありながら、楽しみでもあった土地でした。
他の人にとってはただの土地であっても、私にとっては、刺激的で魅力的な、辛さと温かさを兼ね備えた大切な場所になりました。
いつかまた、自分の足で歩けるようになった時、また訪れようと思いながら、私はその土地を後にしました。

実家に帰った私は、薬を飲まず、安定した日々を送りました。
家というのは、私にとっての居場所でした。
消えることのない場所。
しかし、甘えてしまえる場所。
自分の足で立ってみたいと思う私にとっては、傲慢にも、ここではないと思ってしまいました。

そんな私が選んだ場所は、姉の土地でした。迷惑なことに私は、姉の家に居候するようになりました。
そして、今の私、無職で居候の「とまと」が生まれるのです。

今の私には何もありません。
わがままの言える立場でもなく、身勝手に過ごせる立場でもなく、決定権や選択権もありません。
それでも生きている。
未だ私は、自分の価値を見出せずに、生きる意義がわかりません。
私は未だ無知のままです。
それでも生きている。
何が正解か分からない世界で、一日一日を確実に生きているのです。
生きていく中で見つけたものは、小さな幸せです。
何でもいいのです。
今日は姉の調子が良さそうで、
今日は晴れていて、
今日は好きな音楽を聴いて、
今日は甘いものを食べて、
今日はいつもより長く運転ができて、
その「今日」を少しずつ積み重ねていくのです。
今の私はそうやって生きています。
日々の一日一日が、今の私にとっての素敵な一日で、幸せというのだと思うのです。「幸せと思った時から幸せが始まる」と誰かが言っていたことが、今になって理解できた気がします。「生きる」ということが、今になってようやく実感できた気がします。

これから私の人生には、何が起こりうるのか分かりません。到底想像もできません。
それでも
「私は生きている」
それだけは確かなことなのかもしれませんね。

長々と失礼いたしました。私事でございました。


2 私は「とまと」

無職だった「とまと」、バイト始めました。

唐突ですが、私「とまと」、大手雑貨屋さんでアルバイトを始めました。以前は無職であった私ですが、今では社員さんに頼られる程のバイトとして活躍できております。(自慢です!先日頼りにしてると言われて、お世辞でもすごく嬉しくてつい…)

姉の土地に辿り着いた私は、仕事を探しながらも、どこにも採用されないことに少し安堵していたと思います。それでも生活するためにはお金がかかります。姉に資金援助してもらっているばかりではいられないのです。
それに私は何より彼を忘れることができていませんでした。彼とは連絡を取り続けました。勝手ながら、姉の地を選んだのも、彼が去ってしまった場所と少しでも近いところがいいと考えたからでもあったのです。
私は居候の身ながら、いかに身勝手か、笑えてしまうほどです。
恐らく家族もそれを分かっていたと思います。
それでも姉は優しすぎるほどに私を甘えさせてくれました。

姉と暮らし始めてから数ヶ月が経った頃でしょうか。私も姉との生活に慣れてきました。もちろんお互いに合わないところもあり、些細な衝突も起き始めました。
私は彼のことを忘れられず会いに行くこともあり、姉は私の行為を嫌がりました。私の雑さや怠惰さが、真面目な姉には、鼻についたでしょう。私に怒る姉ですが、私はそれも当然だと思っていました。ただただどうしようもない妹で申し訳ない気持ちでいっぱいでした。そんな私はなるべく喧嘩の無いよう、耐えることにしました。そして姉の言いつけは守るように心がけました。

それでも、
私にはどうしても耐えきれないこともありました。

姉には、新しい土地でできた彼氏がいて、その人はよく姉の家に遊びに来ました。二人は、私がいることをさほど気にしていない様子でした。寧ろ、一緒にひとときを過ごし、楽しんでいるようにも見えました。
最初は、それほど頻繁ではありませんでした。事前に私には彼氏が来ることを話してくれていました。
ですが、だんだんそれはなくなり、彼氏が来るのもより頻繁になっていきました。
私はどこに行くあてもなく、
どう接するのかも分からず、
ただ、
姉とその人が仲睦まじくしている様子を、
同じ部屋で、
眺めるも、
聞き流すもできず、
早くその時が過ぎ去ってくれることだけを祈って、
ただただ、
時計を見て過ごしました。

そんな日々が続きました。私は耐えきれませんでした。
姉の猫撫で声も、
その人が私の領域に(姉との共同区域ですが)侵食してくることも、

私はついに行動に移してしまいました。

姉が仕事に行った後、姉にメッセージだけを残して、車を走らせました。
向かう先は彼。
「今から行ってもいい?」
「いいけど、大丈夫?」
彼は受け入れてくれました。
私の身勝手を。
後から考えても私は家族にも彼にも多大な迷惑をかけたと反省しています。それでもあの時の私にとっては、彼の元に行くことが何よりの救いでした。彼といる時間だけは、私が安らげたひとときでした。

帰ってきた時の私に、姉は何も言いませんでした。

それから数ヶ月が経って、私は家族と会議をしました。いわゆる家族会議です。私の今後と彼のこと、姉との生活、その他諸々のことについてです。私と彼の関係を真面目な両親や姉には理解されないことは分かっていました。それでも私の辛い時を支えてくれていたのは彼であったことは事実です。私が彼に寄せる好意は変えられません。
母は怒り、
姉は落胆し、
父は呆れていました。
私はただ泣いていました。
理解されない苦しみはよく知っていました。家族とは分かり合えないこともよく知っていました。以前からよく知っていました。私の想いや考えは、家族のそれと、ほど遠く、理解の外。逆も然りなのでしょう。いつも妥協し合っていたのだと思います。それでも譲れないものもあり、結局は何も解決策のないまま話は終わっていたこともよくありました。

それでも、
この時は、
私は彼のことを離したくなくて、
どうしても忘れたくなくて、
どうしたらいいのか分からなくなって、
私は彼に電話しました。
「じゃあ、付き合う?」
彼が言った一言で家族会議は終結しました。私と家族が妥協できない問題は、私と彼の曖昧な関係性にありました。その関係性がはっきりした時、家族の妥協点は見出され、私は解放されました(家族は未だ彼のことを少しもいい人だとは思ってくれてはいませんが)。少しの不安と少しの安堵とがごちゃ混ぜになって、流れていた涙を止めてくれました。

その日、彼の意外な一言で、私と彼は結ばれてしまいました。

そんなこんなの月日を送りながらも、私の就活は続いていました。私はあの大手企業の子会社のオープニングスタッフ募集を見つけました。受からないだろうと思いながらも受けた面接でしたが、幸いにもバイトとして雇われることとなり、次こそはと挑戦することを決めました。
その年が私の新しいスタートになりました。

職場にはさまざまな事情を抱えた人がいました。私にも事情はありましたが、それとは別の事情を持った人、家庭を持った人、賑やかな人、落ち着いている人、仕事の早い人、話すのが好きな人、一人で抱え込んでしまう人、いろんな人がいました。私はそこで見聞を広げていくことが出来ました。自分からは話しかけづらい人にも話しかけることができるようになったと思います。仕事をこなせばこなすほど、周囲からの「ありがとう」は増えていきました。
私はそれがとても嬉しかった。
これを求めていたのだと自分でも改めて気がつきました。
そして、相手にも「ありがとう」を伝えたいと思うようになりました。
これまで、私は傲慢にも誰かの優しさに甘えていた節がありました。今でも、恥ずかしながら、家族には甘えっぱなしです。
そんな傲慢な私の周りには、幸運にもいつも助けてくれる誰かがいました。
いつか私の心の安定を取り戻すことが出来たら、彼らに恩返しができるでしょうか。
そんなことを思いながら、
私は着実に一日を生きています。
生かされています。
生かされていることが苦しかった日々。
それでも少しずつそれはそれでいいものなのではないかと思えるように

仕事にも十分に慣れ、早5ヶ月がすぎました。彼と付き合うこととなって4ヶ月。彼とは月に一度、中間地点で会い、一夜だけを一緒に過ごす日々を送っています。言わば遠距離恋愛中ですね。会えない時間は私にとっては辛い日々ですが、彼が週に二、三回電話をしてくれることで、なんとか生きながらえることが出来ています。

私の日々は順調に見えました。それでも負荷は積もってしまうものです。そして、壊れてしまっていた私が、そう簡単に修復することもありません。
残念ながら、一年の歳月を経て回復しているように見えた私の心はまだ壊れたままでした。

いつものように姉とその人は家にいました。姉の彼氏です。(Hくんと呼ぶことにしましょう。)
今では泊まることも頻繁にありました。
バイトに行く朝、いつものように目が覚めると、二人は営みをしていました。
大人の時間です。
壁の薄いこの部屋では、どんなに扉をしっかりと閉めても音を消すことはできません。「あぁ、またか。」そう思いました。もちろん、その日が初めてではありませんでしたし、いつものことだったので、私は彼女らの行為が終わるまで狸寝入りを心がけました。終わった時を見計らってそそくさと朝食を済ませ、用事を済ませようとしました。しかし、私の行動が姉の計画を狂わせたことで、姉が私にイライラをぶつけてきました。私は逃げるようにその場を去り、部屋に篭りました。バイトに行く時間までの辛抱だと思って、どうにかやり過ごそうとしました。腹立たしいことに姉とHくんが楽しそうに話しているのが微かに聞こえたのを覚えています。
私は避けるように自分の耳にイヤホンをねじ込みました。ベッドに横たわり、何もなかったと自分に言い聞かせて、忘れようとしました。
それでも私の中の何かが叫んでいました。
私は泣いていました。
涙は頬をつたい、叫び声は音にならず、声にならない掠れた息遣いがしていました。何度鼻をかんでも涙は止まりませんでした。ただの何気ない姉の言葉が私を壊す引き金になってしまいました。

姉とHくんの楽しそうな声も、
姉が私に怒る姿も、
Hくんが姉との家にいることも、
ましてや泊まることも、
Hくんが姉を溶けさせることも、
私と彼が会うことに家族はよく思わないことも、
彼からの愛が足りないと思ってしまうことも、
身近な人に必要とされていないと不安になることも、
何もかもが自分のせいだと思えてならないことも、
私がいつまでも大人になれないことも、
何もかもが苦痛になってしまいました。
どうすることもできない激痛に私の壊れた心は耐えることなどできませんでした。

涙を流しながら私は剃刀を手にしていました。

彼の声が頭に響きました。
「もう傷つけたらダメだよ。自分を大事にして。」
それでも正気を失った私は、自分の衝動を抑えることが出来ませんでした。これまで何度か剃刀を手にしたことはありました。その度に、彼のことを思い浮かべ、抑えることが出来ていました。それでもこの時だけは、悲しいことに私の理性は消えてしまっていたのです。
何度切りつけても、痛みは感じませんでした。
「まただ。」
そう思ったのを覚えています。
「あの時と同じだ。」
血が滲み、じんわりと熱くなり、ヒリヒリと痛み始めてやっと剃刀を置きました。
後悔した時にはもう手遅れでした。
私の両腕には赤い線が何本もできていました。
その日、バイトを休まなかったことは自分では上出来だったと思います。
次の日は、傷がバレないよう、意図的に姉と過ごす時間を減らしました。

その数日後、また波が再来しました。私の中の孤独が顔を出しては心を引き裂いていくのです。私はまだ癒えない傷の上にまた赤い線を残したまま、バイトと家を往復するだけの日々を過ごしました。

人が自傷行為をする時、アドレナリンがでてしまい、自分を傷つけることは次第に快感に変わってしまうのです。この話をどこの誰かから聞いたときは、信じ難いと思っていました。それでも、いざ自分に降りかかると、それが事実なのだと嫌でも気づかされてしまうのです。自傷行為が自分を落ち着ける一つの方法であって、少しの快楽であることは自分でも驚くほどによく感じられました。そしてさらに「やめなければいけない」という思いから、背徳感が加わり、更に自傷行為は助長されるのです。その悪循環が自傷癖を形作っているのだと思います。

これは弱い私の僅かながらの言い訳でございます。
失礼致しました。話を戻しましょう。

彼からの電話でホッとしたのを覚えています。
「元気?」
いつもの決まり文句のように彼が私に聞くのです。
「元気ないね。」
私の覇気のない声に彼は心配そうにそう言ってくれました。
「まだ、しんどい時があるの?また傷つけたくなる時もあるの?」
彼は私がついこの間剃刀を手にしたことを見ていたかのようにタイムリーな質問を投げかけてきました。私は少しドキッとしました。
「この間はね、我慢できなかった。…ごめんなさい。」
彼に告げました。彼の忠告を破ってしまったことに申し訳なさと後悔と不甲斐なさと苦しさと、いろんな感情が交差していたと思います。
「しんどい時は電話しなよ。」
彼は優しすぎるほどに私を安心させてくれるのです。いつもそうなのです。私は彼に出逢うことができて幸運でした。
きっかけこそ不純ではあったものの。

彼と会う日。私が待ちに待ち、やっと迎えたこの日。彼との時間はこれまでのどの時間よりも鮮明で、幸福で、楽しさに溢れている、そんなふうに思えてなりません。この時の私にとっては、月に一度のこの日が私にとって何よりの励みでした。たった一夜、一緒に過ごせるというだけで、特に何をするでもなく過ぎていく日であれ、私にとっては最高の日。
彼が私のことをどう思い、
何を考え、
共に過ごすことを厭わないのかわからないけれど、
ただ楽しいからという理由だけであるのだとしても、
それなりに大事にしてはくれているのだから、
彼の気持ちまでも独占することはできないのです。それでも強欲な私は、少なからず思ってしまうのです。もし彼が私を好いていてくれていればなどと。
彼との日が過ぎ去った後はまた空虚な時間の始まりです。それでも彼に次会うことを思いながら日々を懸命に生きていました。

嫌なことや辛いことは時にいっぺんに人を襲うもので、人はそれを神からの試練だなんだと言って乗り越える努力を惜しまないのです。たまにそこで挫折し、断念し、逃避に走る私のような人もいたりいなかったり。憂鬱な気持ちのまま次のことを始めてもさほどうまくもいきません。そんな時、気持ちの切り替えのできる人間が一番強いと思うのです。
泣きっ面に蜂とはよく言ったもので、そんな憂鬱な時に限って嫌なことは降っては湧いてくるのです。

無職の「とまと」がバイトを始めて早半年も過ぎようとしています。怠惰極まりない「とまと」もやっと仕事の楽しさを見出すことができ、順調に続けていたバイト。そんな「とまと」でしたが、毎年恒例、辞めたい病にかかりました。(今回はバイトですね。)

暑い夏の再来で、食して美味しい「とまと」にとっては良い季節でも、冬生まれの「とまと」にとっては大がつくほど嫌いな季節。汗が滴り、髪やら服やらが肌に纏わりつく。日差しが皮膚を焦がし、照りつける太陽にガンを飛ばしたくなるような気持ちを抑えながら、涼しさを求めて建物に避難する日々でございます。

すっかり夏になり、「とまと」はばてておりました。そんな時は苛立ちもするし、機嫌も損ねてしまうのです。姉妹の関係も少しずつ変わってきてもおりました。一緒に住んでいるものの、会話は減り、顔を合わせれば、不満をぶつけ合う。そんな日々にお互いに疲れてきていたのだと思います。私にも不満があり、姉にも不満はあり、それでもお互いを気遣う気持ちは変わらずにあったのは幸いでした。しかし、会話が減るとそれも伝わることはありません。お互いにすれ違い、その不満がお互いをすり減らしていくのは目に見えています。耐えきれず私たちは、それぞれ両親を頼りました。時には恋人にも。両親はせっせと仲を取り持ち、二人がなんとか会話のできるよう機会を設けました。

親とはやはり偉大なのですね。改めてそう感じました。何もかもが嫌になる私は、また元に戻っていることを悟りました。また私、同じことをしているとすごく怖くなりました。「まただ」、そんなふうに思えてなりませんでした。しかし、私の成長は、それを誰かに話したことです。弱い私ですが、弱いと自覚し、助けを求めることを厭わなくなれたのは、少ながらず私の成長とさせていただきたい。
私たちは一つ改善に近づくことができたのは事実。姉もこれまでのHくんとの行動が私を追い込んでいることを知り、私のこれまでの態度が姉の苛立ちの原因であることを知りました。これからは、少しずつでも一歩進めることを祈るばかりです。そして、幸いにも、私の辞めたい病も、一旦は落ち着きを取り戻してくれました。
一件落着といったところでしょう。

そんな中、姉の言った「自分に時間を使ってほしい」という言葉が私の頭にずっと引っかかっています。これまで、自分の成長のために時間を費やしたことのかった私ですから、その術を知りません。今考えると、なんとも怠惰でなんとも傲慢な人間であったと思えてなりません。(悲しいことに、今もさほど変われていないような気がしてならないのですが…)
バイトの身の「とまと」には、時間があり、
彼と過ごせる身の「とまと」には、安定と自信があり、
姉の家に居候できる身の「とまと」には、お金に困ることのない、程よい自由があり、
両親が甘えさせてくれる身の「とまと」には、生活に困ることはなく、
考えれば考えるほど、恵まれてしかない状況でありました。
そんな「とまと」、今自分を変えるための努力をしなければ、神からの天罰が下ると思えてならないのです。
「今なのだ、「とまと」!」

これが私の転機だったでしょうか

20代、将来について考える「とまと」でございました。

長々と失礼致しました。私事でございました。



3 私は「とまと」 

これまでご高覧いただき、光栄でございます。

最近、「とまと」、勉強を始めました。
「自分に時間を使わないのがムカつく」
ある日姉に言われた言葉が私の頭から離れず、何をするかもわからぬままに、資格か何か取れば自分のためになるのかもしれないと何となく思った次第でございます。
何事も続かず、途中で諦める癖のある私です。このモチベーションがいつまで続くかは定かではございませんが、一旦始めると致しました。

始めた勉強というのは、以前から興味を持っていた、日本語教師資格の勉強です。これはまたいきなりレベルの高いとこを目指すのかと思われたかと…笑
こんな「とまと」ですが、いつかどこかの誰かに言われた、「日本語教えるのが上手だ」と言う言葉がきっかけでございます。単なるお世辞とも思わずにその言葉を鵜呑みにしてしまったのです。それでも、私は幼い頃から教えることや人前に立つことが好きで、教師になることを夢見た事もあったのです。大学での専攻が教育学なのもそのためでございます。そんなこんなで、全くの圏外ではないかと…

それはそれとして、私「とまと」、勉強と言いましても、これまでそれほど真面目にしてきたわけでもなく、「独学」という厳しい中で、モチベーションを保てるかどうかというところが鍵でございます。高校までの学生時代は、先生の言われるままに、両親に言われるままに、「しなければならない状況」であったからこそできた勉強。それが切羽詰まることのない、この社会人では、何と難しくなることでしょう。
皆様はそんなご経験、ございますでしょうか。

「勉強」
「夢」
「進路」
「努力」
「青春」
「活力」
「貪欲」
どれも学生の頃は大変嫌な言葉でなりませんでした。(今でもそれほど好きになれてはいませんが…笑)それも今では懐かしい。

そんなことを思っていたら、何となく思い出に浸りたい気分でございます。お時間いただけましたら、平凡ではございますが、この「とまと」の思い出にお供くださいませ。

私「とまと」、早生まれでございます。
世紀末。年が明け、程なくして、予定日より一日遅れの夜中でございました。やっとの思いで母体からの脱出を成功させ、幸運にもこの世界と対面いたしました。
「とまと」家の次女として家族に歓迎された初めての日です。

元気が良すぎるほどの姉と、若く溌剌とした両親に可愛がられ、何とも頑丈にぬくぬくと成長を果たしました。母乳が出ず、一時は痩せたものの、粉ミルクのおかげで復活。少しふくよかなくらいまでになりました。そんな私は姉や従姉妹とは正反対でした。従姉妹の家族と交流することの多かった私は、一人だけふっくらした体型でした。叔母からの言葉が幼い私には痛いほど刺さったのを覚えています。
「あんただけ違うね」
私のふっくらした体型も然り、食の好みも然り、私だけが違うことが嫌でたまりませんでした。食べることへの興味がなくなったのはそんな頃からだったでしょうか。成長するにつれ私の食は細くなりました。

そんな「とまと」も幼稚園入園、卒園を経て、小学校入学いたしました。幼稚園の頃はさほど覚えておりません。ただただ一生懸命に園内を走り回り、何も考えることなく遊ぶことに全集中いたしました。そして迎えた小学校。
とても楽しかった。
これにつきます。全校生徒50人もいない小さな小さな田舎の学校でした。私の同級生は5人(途中転校生が来たり転校していったりで卒業の時はこの人数でした。)どんなに馬が合わなくても関わらないことなどできません。前に出て発表することや誰かに教えることの好きだった私は、そこではリーダー格でした。下級生も同級生も引き連れて、活発に溌剌と遊んでいたと思います。
もちろん小さな嫌なことやいざこざはありましたが、振り返ってみて思うのは、それもそれで楽しんでいたと思えてならないのです。

そんな小さな世界で小学校生活を過ごした「とまと」。中学生になります。姉は公立の中高一貫校である新学校にお受験をして見事合格。真面目な人でした。それとは反対に私は、姉と同じ学校の入試を受けるも不合格、母が探し当てた私立中高一貫校に入ることになりました。その頃からでしょうか、私が自分を卑下するようになったのは。
その頃からでしょうか、私が反抗期の頂点を迎えたのは。
今思えば、姉には反抗期がなかったように思えます。姉は順調に、ごく平凡に、どちらかというと高学歴高収入で、社会に溶け込んでおります。地位のある立場にいれるのは、彼女の底なしの努力の結晶なのでしょう。

小さな世界で甘々と過ごしてきた私は、中学校という壁にぶつかりました。そこで生き抜くために、私はできるだけ目立たずに、静かに過ごすことを心がけました。さほど大きな学校ではなかったものの、「女子のグループ」はそれでもあり、それに加えて勉学も加わりました。私が言われるがまま、せっせと勉強をしていきました。姉のように頭脳明晰ではなかったものの(怠け者であることに変わりないのです。)その学校ではトップを維持し続けました。1位を取れば取るほど、誰かに褒められる。それが何よりの励みでした。その時に覚えた四字熟語は「鶏口牛後」でした。「どうせ」という言葉をよく口にする私に母が教えてくれた言葉です。どんなに小さい中でも一番を取ることに意味がある。そう思い込むように励みました。
それでも私は、中学校が嫌いでした。思春期でもあったからなのでしょう。成長と共に自分が変わっていくのがわかりました。かつての私を思い出せなくなって怖くなったのでしょう。度々胃がキリキリと痛み、目がチカチカとなったのを覚えています。学校に行きたくなくて、母に訴えたこともありました。
そんな中でも大切な友人を作ることができたのは、幸運でした。彼女は独特且つ社交的な性格で、思ったことをストレートすぎるほどに表現する人でした。何度もぶつかり、喧嘩もしました。それでも元通りに仲良くなり、今でも連絡を取るまでに絆を結んでいれています。それはきっと彼女が私をこよなく愛でてくれるからなのでしょう。
その子とは高校まで一緒でした。(一応、中高一貫校ではあったので)晴れてJ Kとなった「とまと」。勉強をすることにも慣れてまいりました。トップを維持することもいよいよ難しくなってきました。それでも一番にこだわることを諦めなかったのは、自分でも褒めてあげたいと思っています。
「大学受験」
「センター試験」
そんな言葉がチラつく日々。それでも中学の頃よりは楽しかったように思えます。クラスの誰もが試験に向けて進んでいる、そのことが励みになっていたのだと思います。教科によって、得意不得意も出てきました。それでも満遍なく点を取るように心がけました。

そんな時、姉が大学入学を迎えました。文武両道の彼女は、西日本では名のある国公立大学に入学。姉の有能さを改めて感じた瞬間でした。

一方で、文系の私ですが、得意だったのは英語、不得意だったのは国語でした。結構な致命傷なのは自分でもわかっていました。案の定、英語で点の取れなかった私は、センター試験で転けました。志望校を変えての挑戦も追い打ちをかけるように失敗。少し投げやりになっていた私は、浪人しないよう手の届くところで落ち着きました。

地元の国公立大学に入学した「とまと」は、やっとこさ、新たな出発を果たしたのでした。

少なからず、大学での新しい生活に期待と不安を抱いていました。期待しすぎていたといった方が正しいでしょうか。華やかな生活を想像しました。でもそれは、自分から行動することのできる人にのみ訪れるものでした。積極的になることもふざけ倒すこともできなかったプライドの塊の「とまと」には、ただ流れるだけの時間を呆然と過ごすことしかできませんでした。大学で何を学んだのでしょうか。
キャンパスライフ…
トラブルメーカーといっていいほどのお騒がせ者になってしまいました。男女混合の10人のグループに属していた私ですが、この中で恋愛を始めてしまったのです。これは他の8人にとってはいい迷惑でしかありません。大学ですから、高校までよりは深く関わってはいないものの、それでも気を遣わせてしまったことには違いありません。
私は落ち着いた雰囲気のある男の子に恋をしました。そして簡単に言うと、彼と初めてを全てして、依存し、互いに傷つけあって、疲れた私は、彼とお別れをいたしました。その時の私に見えていたのはその人だけでした。どんなに周囲から心配されていたか、励まされていたか、支えられていたかなんて、考えることもしませんでした。とても身勝手で、幼稚だったと今更ながら思うのです。(それでもその後の人生でも同じようなことは起こるのですが…恥ずかしくも、学ばない「とまと」です)
「とまと」、大恋愛でございます。それまで付き合ったことがなかったといえば嘘になりますが、記憶の中に色濃く残る人というのはそれほど多くはおりません。その人は良くも悪くも私の頭の中に深く残り、私の考え方を変えていった人でもありました。それまでは比較的真面目に生きてきたと思います。男女関係であれ、友人関係であれ、生活に対しても。好きになったら彼色に染まりに染まってしまうのも私の悪い癖でもあります。そこから依存に変わってしまうこともよくわかります。そんな私だったからこそ、私はその人に惹かれたのだと思います。それでも、今の私に後悔はございません。素敵な人と出会えたのだと感謝しています。その人から学ぶことも、その人との関係から学ぶこともありましたから。

学生の「とまと」は、初めて「授業をサボる」をしました。10人の中での居場所も見出せず、友人から離れて過ごす日々を送りました。「孤独」でした。今思えば。助けてくれるのは「彼しかいない」そう思うようになりました。それからは楽しくも、苦しくも何も成すことなどできずに2年間を費やしました。一人に依存する私を両親は何度も諭しました。当時の私の心には虚しくも響かなかったのですが…

ですが、そんな「とまと」にも、ある日突然、糸が切れたように、その人への気持ちが無くなったのです。前兆はあったにせよ、とても突然でした。それを機に、私は彼とのお別れを果たしたのです。
その後の2年間が一人だったかというとそうでもなく、一人の嫌いな「とまと」が我慢できたのは、たったの半年間。1年間はまた別の方との不思議な関係を築いてしまうのです。また別の殿方は、外国に住んでいる異国の人でした。文化も話す言語も違う。それがとても新鮮に思えました。感情や情景を細かく話すことが上手な人でした。時差のある中でも連絡を取り合うことは欠かしませんでした。とても忠実な人だったのだと思います。外国の彼とはとうとう会うことは叶いませんでした。私の中で空想の人に恋した感覚でした。それでも1年間もの間ある意味遠距離恋愛を楽しみました。その頃からでしょうか、「アプリで出会う」ことにそれほどの警戒心も持たなくなったのは。

それ以降の人はアプリでの出逢いでした。他に出会いがなかったのも然りですが、アプリでの出会いはとても簡単だったのです。相手の情報を(嘘だったとしても)ある程度知っている状態で関係を築いていくのも、人見知りの「とまと」にとっては楽ではありました。(痛い目にも何度もあいましたが)それも含めて社会(の汚れた面)を知れたように思えます。少しずつではありますが、「アプリでの出会い」はよくあることになってきております。徐々に理解されるものになってくれればと願うばかりです。(特に両親には…)理解されない原因はよくわかります。素性を知らなくても知ったように感じるところに闇が潜んでいるからでしょう。それで多くの人が被害に遭ったと思うのです。それでも可能性は残していてほしい。きっとアプリの作成者は幸せな出会いを望んでいるはずなのですから。(あくまで、個人的な見解でございます。失礼致しました。)

話を戻しましょう。
卒業を目前に、教師という職業について深く考えた「とまと」。私が思い描いたものではないと思い始めてしまいます。そう考え出すと、今大学で学んでいることは無意味に思えてくるのです。学生の「とまと」は自分が有能であると信じて止まない勘違い野郎になっていたのです。大学で学ぶことは授業以外でもたくさんあったはずなのです。しかし、「辞めたい病」にかかった「とまと」には何にも感動を覚えることはできませんでした。そんな私に両親は懇願しました。「大学までだけは卒業してくれ」母が私と論争し、互いに泣きじゃくりながら喧嘩する中、父が私を叱責しました。娘に対して怒る事のない父が初めて見せた怖い顔でした。やっとの思いで私は卒業を果たすことができました。続けることのできない「とまと」ですが、尻を叩かれに叩かれれば、できるのだということを、恥ずかしながら実感いたしました。

大学院まで進んだ姉と一緒に私は、卒業と就職をいたしました。晴れて社会人でございます。故郷を離れる道を選んだ「とまと」。楽しみでも不安でもありました。姉も頑張っている、私も負けたくない。少なくともそんなことを思っていたのだと思います。私は福祉職に、姉は研究職に進みました。正反対の姉妹ですが、これまで喧嘩といった喧嘩はしたことがありません。互いに尊敬し合い、相談相手でもありました。離れていながら繋がっている。そんな存在だったと思います。私は周囲に姉の自慢をし、姉は私を静かに見守りながら寄り添う。互いに好きの表現方法も違いました。
また話が逸れてしまいましたね。失礼致しました。

社会人として初めて故郷を離れ、一人暮らしを始めた「とまと」。最初は順調でした。研修があり、同期とも上手に関係を築いていきました。ですが、研修を終えた後、仲良くなった同期の配属先はバラバラ。その後の交流はほとんどなくなってしまいました。「孤独」の苦手な「とまと」はとうとう壊れてしまったのです。
そして皆さんもご存じ、「無職の「とまと」」が誕生してしまうのです。
さほど特徴のない少女が成長していくという、平凡なお話でございました。

長々と失礼致しました。私事でございました。

あっ!追記でございます。(このタイミングで⁈)

勉強を始めた「とまと」ですが、もう一つ始めたことがございました。それは物書きでございます。「私は「とまと」」を書き始めたのもこの時でございます。慣れないながら、サイトを作り、自分の想いを、考えを、幻想を、書き連ねていく。幼い頃から作文の好きだった「とまと」。日々に圧倒され、何をするにも面白さを見出せずにいた私ですが、幸いにも、徐々に好きなことを思い出せるようになってまいりました。
「自由に想いを言葉にすること」
これほど楽しめていたのかと改めて感じることができております。私の心も安定を取り戻してくれているのでしょうか。そう願います。

勝手ながら、自己満のサイトでございます。それでも続けていけたらと思っております。少しでもお楽しみいただけたなら幸いでございます。
これからも「とまと」をどうぞよろしくお願いいたします。

改めまして、長々と失礼致しました。私事でございました。


4 私は「とまと」

私「とまと」、故郷に舞い戻ってまいりました。

生まれてこの方、地元から離れることができなかった「とまと」ですが、大学卒業とともに県外に一人放り出され、やっぱり帰りたいと願い、リターンしてまいりました。2年間で、人がさほど変われるとは考えにくいのですが、経験できる事柄は山ほどあると思っております。私は大学を卒業してからの2年間で、この山のようにある経験を、人よりも少し多く抱え込んだと言えるでしょうか。

一旦は正社員として一人暮らしを経て、「死」をも考えた「とまと」でしたが、さまざまな方の支えの中、生還いたしました。その後はニートのようなフリーターとなり、姉の元で居候しながら小遣い稼ぎをいたしました。そんな中、私生活が変化するかもしれない予兆が出現したのです。

ちらつく姉の結婚でございます。
以前少しお話しさせていただいた、Hくんが姉にプロポーズをしたというお話しでございます。お正月の帰省でHくんを両親に紹介した姉ですが、まだ結婚までの道のりは長いようでございます。
それでも、一緒に暮らさせていただいている身の私「とまと」、気が気ではいられないのも事実でございます。
「バイトを辞める」
「一人暮らしをする」
「故郷に帰る」
そんな言葉が脳内を行ったり来たり…
そんなこんなな状況が引き金となって、少しずつ故郷に帰りたいという思いが強まってまいりました。
しかし、バイトの方々には後ろ髪を引かれる思いでした。たくさんの温かな思い出が、私のここでの生活を彩ってくれているのです。ここを辞めたら、こんなにも頼りにされ、絆を深めてくれる人などいないのではないかと思えるほどに、皆さんがとても温かかった。
それでも、私の今後のことを考えると、辞めるという方向性は変わらないように感じてしまったのです。後悔するかもしれないと思いながらも、より厳しい方向へと自分を押し込めていくのは、以前から変わっていないのかもしれません。
また逃げるのかと嫌気さえ抱きました。これまで、変わり続けることが苦痛なのではないかと自分では思っておりました。ですが、ここでは変わらないことが私にとっての苦痛であるのかもしれないと思えてなりませんでした。
これもまた、私のただの妄想に過ぎないのかもしれません。失礼いたしました。

仕事を辞める前にすることは大体が、次の職場探しでしょう。
「次の方向を決める」
これは、私が最も不得意とする事柄でしょう。ですが、残念ながら、この決断と選択は人生の中で何度も何度も、休むことなく繰り返されることでございます。選択肢を作り、その名から最適と思えるものを選び抜き、最適だと言い聞かせて決断をする。このサイクルは何度対峙しても慣れませんし、不安で、どこか人任せにしてしまいたいという思いでいっぱいでございます。ですがタイムリミットもまたあるのです。明日は必ずきてしまうものなのですから。
いつの間にか私は故郷の地に降り立っておりました。辞めるという決断をしてからは、新幹線の如く時間が流れ去って遠のいていくようでした。
LINEの画面を覗き込めば、人と簡単に繋がることのできる社会ですが、人との心の距離はやはり対面している時でしか縮まることはないと思っております。どんなに抗っても毎日会っていたあの頃と比べると、遠く離れてしまった後では、あの時以上に繋がることはないでしょう。寂しいようで、冷たいようではございますが、これが現実でございます。しかしながら、この繋がりを強めることができなくとも、繋いでいることはできるはずでございます。そしてその「繋いでいること」に、私は意味があると思っております。

私は繋いでいたい。

そうただただ願うばかりでございます。

さあ、話は戻りまして、私が実家から通うこととなる再就職の場所と言いますのは、またまた同系列の会社の他店舗でございます。業務内容がほとんど変わらず、始めやすいと思ったのです。
ですが、ここでも私の社会不適合の性が顔を出すのです。社会を知らないだけなのか、それとも会社自体、店舗自体の運営に問題があるのか、それはもう私には判断できかねますが、それでも私の不平不満はどこにいても、何をしても、やむことはないのかもしれませんね。

この会社では、私は孤独でございます。職場に居場所はございません。救いは、両親と電話をくれる彼でございます。この双方は、私の心を壊すことなく温めてくれるのです。職場に居場所がなくても、私が立っている訳は、これでございます。

私はここでもまた、救われているのです。
こんなにも甘えてしまっては、天罰が降りそうで怖いのですが…
「辞めたい病」健在でございました。私の中で、この新しい職場で働くことは、早くも苦しいことになっていました。辞める癖がついているのも確かです。長続きのしない私なのです。一人にも耐える事ができません。私は弱い。それだけは変えられぬ事実なのだと痛感いたします。そんな私に甘い言葉をかけて追い打ちをかける両親。両親もまた、職を転々とするような自由な人なのです。自分の弱さに呆れながらも、打ち勝つことのできない私、一ヶ月ほどで辞めるという決断をしてしまいました。

変わることのできない自分自身に、諦めさえ抱いてしまいます。それでも、次の職を探すことは必須の事項でございます。
辞めることにも飽きてきました。自分でも辞めてしまうことに苦しさがあるのです。
自分を嫌いになってしまう。これ以上は嫌いになりたくはないのです。
また、戻ってしまうのが怖いのです。
戻ってしまうと感じるから怖いのか、
変わっていないと思うから怖いのか、
どちらにせよ、
どちらでも怖いのです。
もう同じ気持ちになりたくはないのです。
私「とまと」、自分ことを認めることのできる強さを少しでも持っていたいと思うのです。

次の就職先を探しながら、私はまた無職のとまとに戻っていました。彼は無職に舞い戻った私をあまり好まないでしょう。彼は意外にも常識的で少し堅くもあったのです。それでも、私を受け入れてくれました。彼には感謝しかありません。彼のためにも早く見つけたい。もう辞めなくてもいい場所を。

彼とお付き合いを始めてから、一年が過ぎました。関係が変わることも、想いが変わることもさほどありません。彼とはとても安定するのです。彼の気持ちが変わっているのかどうかなど分かりません。少しでも私のことを好いてくれるのなら、大事にしてくれるのなら、などと、私が烏滸がましいことは口が裂けても言えません。ですが、言わなくとも、彼は私のことを大事にしてくれているとは感じことができる。それだけで満足でございます。幸せでございます。
次、いつ彼に会えるかは知りません。ですがその日を待ちながら、自身を高めることにいたします。

さて、新しい職場は案外すぐに見つかりました。次の職はと言いますと、「先生」でございます。

「とまと」、先生になります。

塾のような学校のような、そんな場所での先生でございます。高校生を相手に、勉強を教えたり、一緒に日々を充実させたり、心のケアをしたりとなんとなくフワンとした業務ですが、それでも、教えることが好きな私にとっては、案外楽しい業務でございます。
職場に雰囲気はさほど良くはありませんし、待遇も口が裂けてもいいとは言えません。ですが、高校生のあの若さや純粋さは、少なからず元気をもらえます。
少しは続けることの出来そうなのは、「とまと」にとっては喜ばしいことでございます。

泣き言の多い「とまと」でございます。これから、不平不満も多くなっていくのでしょう。「辞めたい」と弱音を吐くのでしょう。
それでも、少しでも長く自分を保てるように踏ん張ってみたい。今はただそう思うのです。

彼は褒めてくれるでしょうか。
家族は褒めてくれるでしょうか。
生徒は頼ってくれるでしょうか。
同僚は頼ってくれるでしょうか。
また自分を好きになれるでしょうか。

少しの期待と
少しの不安を
この胸に抱いて、今日も私は生きています。

どうかこれを読んでくださっているあなたにも、生きてほしい。

生きることは辛いこと、それでも生きているからこそ感じることのできる感情がある。私の頭はおめでたいのです。それもそれでありですよ⁈

なんとなく、しんみりとしてしまいました。
私「とまと」これからも頑張って参ります。
好きな物書きも、もっと本腰を入れていきたいと思っているのです。
好きなドライブも、もっと日常的にしていきたいと思っているのです。
好きな自分を取り戻すために、気合を入れていきたいと思っているのです。

余談でございますが、
最近の「とまと」、お恥ずかしながら、質量が増加しております。
これは大変なことでございます。
欲張りではございますが、健康的に、無理なく、減量に励みたいのでございます。
長続きしない怠惰な「とまと」にもできそうな減量法を模索中でございます。
一旦手当たり次第に試してみるのも手でございますが、効率的にいきたいのも本音でございます。
気難しい要望。
これ以上の質量の増加を抑えつつ、研究していく次第でございます。

失礼致しました。余談でございました。

脈絡のない話を長々と失礼致しました。私事でございました。


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