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燻んだnovelty #1

私は街が好きです。

都会は高層ビルの樹林。その樹の隙間を縫うようにして人が行き交う。道ですれ違う人各々が何か思って生きているのだろうと街は感じさせる。それは街が人と人との交差点として機能している証だといつも思う。

街というこの字を書けば、誰もが都会を想起する。町と街の違いは田舎にあるマチか、都会にあるマチかの違いだと遠く昔からなんとなく私の中では一つの常識として認識していた。(どうしてだろう?そう教わったのか、その用法から意味を推測したのか?)

その違いをもう少し深く調べてみると面白いことが分かる。

町は字に田の字が含まれている通り、町という字は元々田んぼの一区画を意味するものだったらしい。(丁は田んぼの畦道を意味するみたいだ。)よって原義は区切られた場所ということになる。町の田舎にあるマチというイメージは田んぼからだろうね。

一方、街はどうだろうか?

街=都会のマチという認識は少し違うようだ。街はその字に十を2つ縦に含んでいる。これは十字路、つまり交差点を意味しているらしい。街の字源は交差点なのだ。交差点とは人が道を行き来して出会う場所だから、いつも人で賑わっている。そのニュアンス、イメージが街の都会のマチという認識につながっているのかも。

町も街も私達が一般にイメージするマチとは原義的に異なっていたと分かった今、マチとは何だろうか。原義としてマチを意味する字は無いのだろうか。

そもそも「まち」という言葉の語源は一説には「間路」らしい。田んぼの間の路。つまり畦道のこと。私達がイメージするマチとは随分違うように思える。原義として私達が今日イメージするマチに完璧に対応する言葉は元々なかったみたいだ。推測だが、マチが作られるようになる前からいくつか言葉はあって、そしてマチが形成され始めた時、その言葉の中から今日のマチに近いイメージを持った言葉が意味を拡張させ、マチを表すようになったのかもしれない。だとしたら今日のイメージ通りのマチを原義として意味する言葉がないのは納得できる。語源レベルで語るにはマチという形態はいささか新しいものなのかもしれない。

そうして区画を意味する町が、十字路を意味する街が、のちに生じるマチを意味するように拡張されていった。両者は一見統合され、意味の区別が薄くなり、違いは曖昧になった。

そうなるとやはり原義(=元のイメージ)通りに言葉を捉えるのが筋だと私は思う。言葉の定義はイメージだ。言葉を言葉で厳密に完全に定義できるわけがない。定義する言葉を定義しなくてはならなくなる。イタチごっこだ。そもそも頭の中にあるイメージを共有するために言葉ができたのだろう。だとしたら言葉の定義はイメージだ。

よって原義(=元のイメージ)に戻ると、町はマチの区画制という特徴にフォーカスした際に取り上げられるマチのことであるのに対し、街は路がつながり合い交差点を持つというマチの特徴にフォーカスした際に取り上げられるマチのことだと定義できる。そしてマチは少なくとも区画制と交差点(町と街の両方の特徴)をもつものと言える。(そうでなければ町や街の言葉の意味が拡張されてマチを表すようにはならないだろう。)他にもマチというものを決定づける特徴はあると思うけれど、ここでは町と街の原義的な意味の違いから探ってみた。

これを踏まえた上で、私は「街」を取り上げて、それが好きだともう一度言おう。私は人の行き交う交差点というイメージを持ったマチが好きだ。出会い、すれ違い、別れのある場として機能するマチが好きだ。

街には人の思いが宿る。単なる区画とは違うのだ。区画を保持するのに人の存在を必要としない。区画を作るのは人だけれども、それで終わりだ。区画は一度区切られればそこに人が住んでいなくとも区画のままだ。単なる四角形という図形に切り取られた土地だ。それに対し、路があるのは人がいるからだ。人が歩けばそこが路になるとよく言ったものだ。路は人が通らなければ路ではなくなる。それこそ単なる路という名のついた区画になる。人が行き交うところが路になる。そしてその路が繋がり合い交差し、人が集まり人で賑わう。その場が本質的には街のことだ。路の交差点である街も路には変わりないからその存在は人の存在を前提としている。だから街には必ず人がいる。人がいる街には思いが宿る。

出会い、すれ違い、別れ。その場として機能する街は幾つもの人の思いや人生を内包している。街は幾千もの人の思いを抱いて、それらを神経細胞のように結びつけたり、解いたりしながら生きている。そう言う意味では生命的だし、有機的だ。

そして例えばあなたが普段見上げているかもしれない、煌々と輝く鉄筋コンクリート造の高層ビルディング群も街という世界を構成する一要素であるのだ。無機的な人工物の塊にも見えていたかもしれないその建物も、街の生命性と有機性を認識し、それがその一部である事を認識してみれば、その姿に愛着が湧いてはこないかな。認識しづらいなら想像してみればいい。例えば夜8時。道路の向かいの高層ビルの21階。残業中のフロア。広がるのは静寂。PCに向かう一人の女性。彼女は残った仕事に追われているけれども、斜め前のデスクに座る上司の男性を時々チラチラと見ている。フロアには二人きり。彼が少し欠伸をする。それに彼女はふふっと笑う。彼も気恥ずかしそうにつられて笑う。二人は早く終わらせましょうと目配せをする。そんな二人はどんな関係性だろうか。何かあるかもしれないし、何もないかもしれない。もう何かあったのかもしれない。この日が二人にとっては大切な思い出の一つになるかもしれないし、そうでないかもしれない。そんな二人の映像はゆっくりとズームアウトしていき、気づけばまた二人がいる道の向かいの高層ビルを写している。そんなことを想像してみるとどうだろう。そのビルも違って見えてこないか。

街にはそんなドラマがいくつもある。新しいことがいつも起こっていて新しい出会いに溢れている。いつもどこかで小さくとも確かな物語が紡がれ続けている。そのシナリオは幸せなものだけで当然ないし、辛いものも多いだろうけれど、そんなもの全てが人間的で愛おしい人生の一場面だと思う。街はその舞台で、多くの人の思いが揺れ動く。それは人間的な心のある素敵な世界に私には見える。そしていつも街がそんな素敵な世界であってほしいと願っている。

仕事帰りに都会を闊歩しながら、私は街という一世界にそんな心の広がりを見ていた。

街という世界

以下はさらにとても個人的な話。

街で暮らしていくらかの年月が経った。残念ながら変わってしまったこともある。

街に対する感情にも変化が生じている。好きなことには変わりはないけれど。憧れていた街の中で暮らすうち、新しい人や物とすれ違ったり、出会ったりする交差点として私が夢描いた理想のイメージ通りに街を見ることは少なくなってきたとでも言うのだろうか。今は街に対して色々思うことがある。良くも悪くも、街のnoveltyは燻んでしまった。それに対しては一抹の悲しみとともに複雑な思いがある。

長くなってしまったので、その経緯と街に対して今抱いている思いは#2で書こうかな。


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