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影に思いを馳せること

彼のことを思い出す度、不思議な人だったなぁと思う。

伏せ目がちで、どこか人を恐れていて。厭世家のように振る舞って、人を嫌っていて。長い前髪に隠れた黒い目は全てを拒絶するような色が宿っていて。

だけれど、私に時折見せる不器用な微笑みが私は好きだった。2人きりの時は耳がくすぐったくなるような、少し気を許した優しい声で話してくれるのが嬉しかった。

私はそんな貴方に惹かれた。

以下はその記録。

2月 


彼は週末は私の家に泊まりに来て、2人で過ごした。そんな日々がこの2月で数ヶ月間続いていた。

お互いインドアだったので、特に何処かに出掛けるわけではなく、お互いに好きなものを紹介しあったりして時を過ごした。

十分に満ち足りた日々だったけれど、私は彼が時々遠くを見るような目をしているのが気になっていた。

何処か遠くの国を想像しているような目。その目はまるで寒い冬を映しているようだった。

彼の身体は私の隣にあるのに。

それこそ、こうしてソファの上で身を寄せ合って、時々キスを交わしたりして。

きつく彼にハグをしても、それでも。

それでも彼が私の隣にいるとは思えなかった。

何を考えているの?と聞けば、なんでもないよ、と優しく微笑んだ。

そうして私の頬に軽くキスをして私の髪を撫でた。この瞬間がいつまでも続けばよかった。

しばらくすると彼はまた遠くを見るような目をしていた。彼の横顔は寂しさと苦しさが滲んでいるように私には見えた。

部屋が一段と冷え込む。

私は彼が見ている世界にいつまでも映っていたかった。彼が見ているものを一緒に見たかった。

彼は何も話してくれない。彼のことが分からない。

4月中旬

彼と言い争いになった。と言っても彼はほとんど何も言おうとはしなかったけれど。

彼の気を引きたくて、私のことをどう思っているのか問い詰めてしまった。

彼はベランダにある背の高い方の植木を見つめながら、〇〇さんのことがもうよく分からない。自分のことももうよく分からないんだ。とそれだけ呟いた。

長い沈黙。

目頭が熱くなって駄目だと思った瞬間、涙が溢れて止まらなかった。

泣き腫らしながら彼が何か言わないか待つ。

待ちつつまた涙を流す。

少し落ち着いた頃に彼は俯いてごめん。と呟いた。

その日の夜に私たちは終わった。

食卓のライトが部屋を温かに丸く照らしていたのが印象的だった。向かい側に座っていた彼の顔はぼんやりとしていた。

彼は逃げるように関係の終了を提案した。(もはやそれは始めから決まっていた様な言い方だった。)

私はそれに頷くことしか出来なかった。

どうしてこうなってしまったのだろう。

彼に責任を押し付けて自分の気持ちを軽くしようとする私を否定することを頭の中で繰り返した。

その度に私は私を嫌いになった。

4月末

桜は散り、生命というものの色を染め出したかのような濃緑の葉が川沿いの町に生い茂り始めた。

彼が消えた数日後、日記に私はこう書いていた。

4/23  君がいない部屋にて

もうどうしようもない、と思う。

終わりは何もかも必然で、陳腐で、平凡だ。

でもまだ私は心のどこかで、貴方のことを追っている。

彼が私の部屋に残していった、いくつかの本に縋るように私はそれらを読み続ける。

貴方が何を考えていたのか私には全く分からなかった。

活字の海を泳いで、泳いで、溺れても、いつか貴方に会いたい。貴方がどんな人だったのか私は知りたい。

もう遅くてもそうしないと貴方との思い出をどうしようないほど辛く感じられてしまう。

貴方がいた日々を思い出しても、よどんだ真っ青な空気が日々を覆ってしまっているようで、私にとって幸せだった記憶も貴方の悲しみがそこにあったように思える。

いつもくしゃくしゃの長い黒髪や、時折見せる微笑んだ顔が、優しさが、私は好きだった。私を見つめた優しい目が忘れられない。

その目が何を見ていたのか、たとえ私の事を全く見ていなかったということを知っても、全てを知りたい。

その上で貴方を肯定してあげたいと思う。もう遅くても。

遠くを見つめるその目が見ていた世界に私は行きたい。

だけれど今はまだその世界の輪郭すら見えない。

今思えば、この時の私は何を考えていたのだろうと、少し可笑しくなる。彼が愛した本たちを読んでも彼はそこにはいないのに。

4/26  彼の本

彼は最後に僕にはもう必要ないからと言って、いくつかの本を私の部屋に残していった。

私は部屋の隅に置かれていた本棚の右上にある、詩集「青猫」に目が止まった。

萩原朔太郎のもの。そういえば彼はその中に載っていた詩「野鼠」の一節を気に入っていたんだった。

「そうしてとりかえしのつかない悔恨ばかりが野鼠のように走り去って行った。」

ずいぶん寂しい詩だと、貴方にこの詩を見せてもらった時に私は確かそう思ったはずだ。貴方がこの詩に何を思っていたのかは全く分からなかった。

だけれど貴方がいない今となっては私も貴方の気持ちが少しわかる気がする。

貴方のために何かしてあげることはできなかったのか、毎日考える。苦しそうに生きる貴方に何かできなかったのか。

後悔ばかりが走り去って行く。そう、まるで野鼠のように。

貴方は私の隣にいた時も1人こんな気持ちに苛まれていたんだろうか。胸が苦しい。


6月

しがない会社員として働いて、彼のいない部屋に帰る憂鬱な生活が続いた。おまけに梅雨。休日は部屋で雨の音を静かに聞いていた。

そんな頃に私の住所宛に彼から手紙が届いた。

彼のLINEはブロックしていて(彼の連絡を待つ自分が惨めだった)繋がらなかったので、別れて以来初めての彼からの連絡だった。

郵便受けに入っていた手紙の差出人の名前を見た時、怒りを覚えた。

今更だよ、と。もう何もかも終わってしまったんだよ、と。

それでも嬉しいことには変わりはなかった。

彼の字は端正で、綺麗だった。私の好きな、変わらない字だった。(付き合っていた時、彼は時々手紙を書いてくれていたのだ。)

恐る恐る開封する。

手紙の文字からは彼の声がした。

ただ、この数ヶ月間、ずっと貴方の事を考えていました。

一方的に関係を終わらせたこと。
僕を知ろうとしてくれた貴方を拒絶してしまったこと。
貴方がくれた沢山の優しさに報いることができなかったこと。
貴方を深く傷つけたこと。

後悔ばかりです。

もう一度やり直すことが出来るなら、貴方ともう一度向き合いたいと思っています。

手紙の最後には、自分の身勝手さに対する謝罪の言葉と、もし良かったら返事が欲しいと書かれていた。

封筒の中には返信用の封筒が入っていて、彼の住所がすでに書き込まれていた。

数ヶ月間、押し留めていた彼への気持ちが溢れ出す。もう耐えられなかった。零れ落ちる涙が震える両手で持つ手紙を雨のように濡らす。

彼の身勝手さなんてもうどうでもよかった。彼がまだ私を想っていてくれていることがただ、ただ、嬉しかった。

今度こそは彼を理解し、その全てを愛してあげられると思った。

降り止まない梅雨の音が静かに響いて私を包み込んでいた。

9月

結局何一つ変わらなかった。彼はもういない。

二度目でも彼を理解してあげることはできなかったし、彼の全てを愛してあげられなかった。

彼からの手紙を受け取った後、彼に直接会って話がしたいという旨の返信の手紙を送ると、また彼から手紙が送られてきた。
(手紙でのやりとりは時間がかかったけれど、今の私たちにはそれくらいの距離感がちょうどよかった。)

そんなやり取りを幾つか重ね、彼と会って話をして、そして私たちは寄りを戻した。

だけれど上手くいかなかった。

歩み寄ろうとして、理解しようとして、傷つき、傷つけあった。

言ってはいけないような言葉を使ってしまった。

9/21  気づき
彼の全てを愛することなど、はじめから到底できないことだったんだ。そもそも人の全てを理解することなど無理に決まっている。当たり前のことなのに。

私はどこでこんなに傲慢になったのか。

職場での苦痛や、自分への失望。私との将来が見えなかったということ。

彼は復縁した後、少しづつ自分の苦しみの訳について語ってくれた。

彼を励まつつ、将来のことを二人でじっくりと話し合えばいいと思っていた。

実際、少しぐらいは彼の苦しみを分かってあげられたと思う。

だけれど、私はそれで彼の全てを理解した気持ちになっていた。

それが私の傲慢さだった。

人はそう単純じゃないのに。私自身もそうなのに。

それに二度目も気付かなかった。

彼のことを分かった気になって、それでも理解できない事があって。

戸惑って言ってはいけないことを言ってしまった。

その後はもう、彼はもう何も話そうとしなかった。

今なら、と思うのも無駄だ。人生は後悔の繰り返し。

「そうしてとりかえしのつかない悔恨ばかりが野鼠のように走り去って行った。」

とりかえしのつかない悔恨ばかり。

今思うと、彼の苦しみは彼が語ったことより、もっと抽象的で曖昧なものだったと思う。

無駄な試みだと思うけれど、あえて言葉にするなら、生への執着の薄さゆえの現実感の欠如や、悲観主義的発想による暗い未来が頭の中を覆っていたことが彼の苦しみの原因だったのかもしれない。

それが本当なら私には始めからどうしようもないことだったのだ。

彼の全てを理解したいと望み、それができると信じていた私は傲慢で、余りにも浅はかさだった。

少しの想像力さえあれば、彼のことを全て理解しようとする事はなかったはずだ。分からないこともあるだろう、見えないこともあるだろうと、受け入れることのできる、寛容さを持てたはずなのだ。

私がすべき事は彼の全てを理解してあげることではなく、私はただ彼の隣で笑っていればよかったんだ。ただ彼を抱きしめてあげればよかったんだ。

それが彼にとっての唯一の救いだったかもしれないのに。

それが愛するという事なのに。

終わりに

彼のことで今でも覚えていることはいくつかあって、その中でも忘れられない言葉がある。

ある時私が撮った、半分くらい欠けた月の写真を見せた時。

彼は『いいね。月は欠けている方がいい。』と言った。

不思議そうな顔をする私を見て彼は続けて言った。

『月の形を決めるのは影でしょ。だから僕はそれを味わえる欠けた月が好きなんだよ。』

『見えないものを想像するのは、それが見えないからこそなんだ。』

『そして時にそれが全体を決定する重要さをもつ。』

『僕はそんな想像力を持っていたいな。』

このような言葉が断片的にだけど、記憶に残っている。

彼は最後に『良い写真を見せてくれてありがとう。』と言って話を終えたことも覚えている。

世の中に理解できないことは沢山ある。特に他人のことについては多い。

そんな時、その全てを明らかにしてその全てを理解しようとする姿勢は恐ろしいものだと思う。

そもそも目に見える事など、理解できる事など、知れているのだ。

目に見えないから想像する必要があるのだということ。

見えるものが全てではなくて、見えないものが時に大きな意味を持つこと。

彼から学んだことだ。

貴方の幸せを願っています。同じ月の下にいるから。


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