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生きるとは

湿った道の上を一生歩き続けているが、この陰鬱なトンネルの先は見えない。おまけにここらは嗅いだことのない様な嫌な匂いがする。塩素系漂白剤と真夏の太陽に晒された生ゴミを混ぜた様な匂いである。最もそんな物を嗅いだことは無いのであるが。道には窪んだ穴が所々に空いており、穴並々に溜まった泥水に浮かぶ様にして深い緑の苔が繁茂している。それらに足を引っ掛けないようにしながら前へと進むには、目を閉じるわけにはいかないのもまたこのトンネルの陰鬱さを助長する。僕が道の先に黒く鈍く光る泥水らしきものを目の先で捉えるたび、その汚水に育つ苔の印象が急激に脳に蔓延びるのである。印象は印象でなくなり、鮮明な主観的な実像となって僕の精神的な視覚の舵をとる。他の何事をイメージしても脳味噌の裏側では無数の苔が這っているような気分がする。そして「苔は黒々としており、表面に生える無数の毛には泥水がたっぷりと貯めこまれている。」といったような映像(言語という形をとっていない)が絶え間なくそして繰り返し流れ続ける。自己の存在を揺るがすものはいつでも外界から喚起され自身が抱いた印象なのであると僕は信じて疑わない。10年ほど前のある日にこの事実を確信して判明したことは、精神的視覚の舵を取り返すためにはその場より観念的かつ抽象的な世界へと身を投じ、舵を放棄することがむしろ最善だということだ。舵を放棄していれば気づいた時にはもうすでに舵は掌に握られているのだ。僕は芥川の「歯車」の一行を思い出してみることにした。

「かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。」

苦痛を苦痛と認識することで、自嘲的な気持ちになることができる。それは苦痛よりかは幾分ましであるのだ。この一行を軽やかに反復しているうちに再び道の先の苔を視認してもそれのことなどどうでも良くなってきた。足取りも軽い。人生はこういうものであると、この陰鬱なトンネルの中で思う。僕は必ず存在する出口を求めて先を急いだ。

「歯車」の最後の一行「誰か僕の眠つてゐるうちにそつと絞め殺してくれるものはないか?」なんて思いながら。





(高校の時の日記に載っていた短編をここで外気に晒しておく。少しは陰鬱さが消えるのではないか。なんてね。私は未だこのトンネルの中を歩いている。)

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