壊すは易し創造(つく)るは難し

ごきげんよう。

絵は私にとって生きる上で切っても切れない縁であり、自己の半分は作品を生み出す事に時間を掛けております。

それを人生の無駄と捉えるか、知らねえよと捉えるかどうかはこれを読んでいるアナタ様の自由です。

人生はごく限られた時間の中で皆が等しく分け与えられた謂わば"命の砂時計の中に入れられた砂"を使っている真っ最中ですから誰しもが上から落ちてくる砂が無くなればそれ即ち命が無くなる事を指しますね。

そんな限られた中で不確かな芸術と言う分野を志したかは言うまでもなく、「21世紀の文化文明を発展する」と言う使命を私が幼い頃から掲げていたからである。

小学生の頃は微生物の研究者や、発明などの科学分野で将来は着々と何かを発展させていくのだと思いを抱き生きて来た私でしたが、実のところ私はそれまで研究者になる人と、なれる人の違いが分かりませんでした。

よくそう言った研究職は「勉強が出来るから」や、「特定の事に好奇心や興味があるから」と言うタイプがなれるものなのだと思っていましたが、実際はそうではなく「協調性」や「フットワークの軽さ」がフィールドワークに必要なのだともっと後になってから分かりました。

過去の人生を振り返ってみれば自分には協調性が無かったと言ますね。フットワークの軽さも、自分は考えてから行動するので時間が掛かりすぎて周りからはもっと早く行動して欲しいと催促されてばかりでした。

そう……簡単に言えば私は石橋を叩きすぎて壊すタイプ。

だから周りからは同じ班にならないで欲しいと断られて生きて来ました。

でも、よく考えないで行動する人って、何の為に頭があるのだろうかと解せない時があります。
その人にとって脳は飾りなんでしょうかね?まあ他人はどうでも良いですけど。

そんな私が、もし今のクラスの人と仮に「研究グループ」になったらどうなるか頭の中で考えていた時がありました。

よく考えて行動する人、動きかかるのに時間が掛かりすぎる人、せっかちな人、リーダーシップを取り司令塔の様な人、傍観者気質な人etc…色々な人が居ました。

これはどこの国、世代、民族でも共通の要素を含んだ、一種の人間の"持ち味"とでも言いましょうか。

どこの学校でもそう言ったタイプの人は居ます。

そう言った人達を前に研究を進められるだろうかと考えてみても何パターンかの何%は成功する道があったとしても、同様に悪い結果…即ち自分若しくは他人が研究職が嫌になって抜けたり、何か良からぬ事件が発生したりして研究が続けられないと言った事になるのでは無いだろうかと勝手に考えたりしました。

自分では実際に起こらないだろうとする物まで万が一の事が起きる"かもしれない"と、神経質に物事を捉えてしまう傾向が強いのでどっちみち研究職は他の優秀な人に任せれば良い。自分よりも優秀な人が多い事位知っているのだから。……とそのステージからひっそりと姿を消そうと決心して気が付けば高校生の半ばに来ていた16歳の夏。

その頃、自分が一番出来る事は何だろうかと悩んでいた。

周りの人は優秀だったり、自分ではとても勝てそうに無いレベルの高い人が多く、社会に出ても自分では到底敵わない…その内私の様な人は淘汰される筈だ。それならば自分から一人でできる事を始めてみようと決心したのだった。

それこそが芸術を志したスタート地点とも言えよう。

思えばそのスタート地点はあまりにも荒地だった。

自分にある物は限られている。地位や名誉、資産、知能、権力、……そんな物私にはまるで関係ない様に思えた。

そんな自分が幼い頃より絵を描くと言う崇高な儀式とも言える物で自己を言葉で伝えるのではなく、図表で他人とコミュニケーションを、つまり自分が考えている事を伝えたい…そんな事を考えて導き出した結果でした。

それが自分にとっての「壊す」と言ったものであると言いましょうか。

自分の考えを壊した、重い腰を上げて自分から動く事を始めた最初の一歩でありました。

そして、これからはそれを創造(つく)って行くでしょう。

その創造と言うのは簡単な事ではありません。何故なら既存の物は造るのが簡単でも、未知なる物は誰がそれを未知なる物だと評価してくれるか分かりませんからね。

でも、私はその他人の評価は当てにならないと捉えています。

ひょっとすると私が間違えているかも知れません。誰にも未知なる物だとコメンテーター気取りで評価をしても今の時点ではそれが既存の物で何の価値も無いただの絵だと言われるかも知れません。

そのただの絵が誰か一人の心を潤せれば私の使命の中の「己の創造した芸術作品で誰かを癒せる」と言うミッションをこなしたと言う事になりますから、自己の像に限りなく近くなった事に違いは無い。

そしてその創造はその後も私が死なない限り続く事でしょう。例えそれが他芸術家の死後の様に評価を受けても一つの時代に生きていた事を遺せれるなら私としては本望である。