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【感想文】スメタナとドヴォルザーク@サントリーホール7.11(後半)

~つづき~
最後はドヴォルザーク「交響曲第9番ホ短調作品95」『新世界より』(1893年)である。副題「From the New World」はドヴォルザーク自身がつけたものであり、ここでいう「新世界」とはアメリカのことを指し、51歳で音楽院に招聘された彼の、新天地アメリカからの、故郷ボヘミア(チェコの現在でいう西部・中部地方)への郷愁がこめられているとされている。

第1楽章冒頭は静かにゆったりと始まる。この曲は主題とその(繰り返しの)出現が分かりやすいが、第1楽章の主題は、こののち全楽章で登場する。ホルンによる第1主題は弦に引き継がれ、金管も加わり、一旦激しさを見せた後、第2主題が現れ、次に現れるフルートのメロディを弦楽器が引き継ぐ…といった感じだが、この楽章の中だけでも、楽器を変えて何度も主題が出現する。

これまで幾度となく聴きこんできた曲だが、細かい音、リズム、間、楽器ごとの強弱、どれもみな、ものすごい差というものはないように感じた。それは、指揮者の特徴が表れない曲だ、というのではなく、それだけ古今東西で数多く演奏されてきたため、割と演奏が一定(安定)しており、あまり極端な解釈の差がないからなのではないか、と思った。
指揮者はかなり身振りが大きい。だが素晴らしいまとまり方である。

第2楽章は、日本でも「遠き山に日は落ちて」として知られている、特に有名な主題をもつ。
イングリッシュホルンによる、この主部の主題は全く狂いがない。さすが、だがこれが世界の当然のレベルなのか、と思った。
日本で、子どもでも知っているこの有名なメロデイが、遠くプラハからやって来た演奏家たちによって、寸分違わず(日本とチェコによる違いはなく)、今まさに目のまえで演奏されていて、感動する。歴史的距離のみならず、地理的距離も超越する、それが音楽である。そして、この点は、他の有形の芸術にはなかなか見られない、音楽ならではの特長でもある。
後半、第1楽章の第1主題も再び現れ、最後は冒頭の主題が登場し、静かに幕を閉じる。

第3楽章は、主題、2つのトリオ、コーダから成る。1つめのトリオは民謡風、2つ目のトリオは西洋風であり、コーダでは第1楽章の2つの主題が登場する。
モチーフはボヘミアの農民の踊りから得られているらしいが、ともかく、(チェコ)国民学派であるドヴォルザークらしさ、その手腕が遺憾なく発揮されている楽章である。
下降する主題プラス下降するバックの金管、これが、聴いていてなぜか、交差しているように感じるのだが、よく聴くとどちらもやはり下降しているのだ。おそらくは金管が例えばバンド編成でいうベース的な役割だからだろう。個人的に、こういった音同士の駆け引きのような重なりはとても好みである。

実際の目の前の演奏もまた同様で、指揮者の身振りはますます大きく、といっても楽器の強さを煽っているのではなく、身体全体で、指揮というより音楽を表現している、彼もまた一人の演奏者、オーケストラの一員のようである。指揮者の呼びかけに対し、オーケストラが応じる、呼応の関係のような、まるで対話しているような、指揮者と演奏家の動きのある関係が、そのまま巧く曲に出ている。

第4楽章
冒頭部分はこれもまた有名である。これまでの各楽章で用いられた主題が再登場する。弱めながらも、曲中で一度だけ、この楽章でシンバルが使用される箇所がある。

この楽章は冒頭からあまりに圧倒され、メモも何もない。遠く幼き頃、毎日のように聴いていた自分を思い出したり、金管の迫力に驚嘆したり、主題の登場で現実に引き戻されたり、音楽は空間芸術ではないけれど、ではこの広い空間の空気を振動させている音たち、瞬間瞬間における空間の揺れをどう捉えたらいいのか、なんてことがフラフラと頭に浮かんでは消え、涙で潤んだ瞳が、潤んだままの状態のうちに、曲は終わった。アレグロがどうの、等々の解説じみたものは、ゆえに、ない。

〈総括〉メリハリのある演奏というより、滑らかさ、強弱、裏方にいるべき楽器と前面に押し出すべき楽器、そのそれぞれの強さのレベル、どれをとっても、バランスが素晴らしかった。私は演奏家ではないのだが、おそらく、演奏家や指揮者は、作曲家が何を要求していたのかということを、スコアだけを頼りに(あるいは勉強するとしても限界があるだろう)どのように再現・演奏すればいいか考え悩むだろう。作曲家自身ではないのだ。だが、もう一つ、曲そのものが求めている「表れ方」のようなものも、あるのではないか。いわば、曲自身の持つポテンシャルの、最大限のひきだし法、のようなものである。その二つを同時に考え、挟まれ、演奏されるべき音色は、もしかしたらスコアに忠実すぎるのではなく、ある程度「理想化」されたものであるかもしれない、とも思う。この点、音楽芸術は特殊である。私たち聴き手にとっては、音楽を聴くことは一種の「追体験」である。だが指揮者・演奏家にとっても、演奏すること自体が、聴き手より一つ前の段階の「追体験」なのではないか。


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