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テツガクの小部屋20 プラトン④

・分有説
イデアが存在で、個物は非存在、すなわちイデアの仮象である。しかし不完全ながらも、個物はそれぞれ一定の性質や本性を示している。
例えばこの花は美それ自体ではないが、やはり美しい。このように個物が不完全ながらもそれぞれ一定の性質や本性を示すのは、イデアを分有することによってであるとプラトンは説く。個々の人間がそれぞれ特定の個別性や特殊性を有しながらも人間であるのは、人間それ自体、人間のイデアを分有するがゆえなのである。
これをイデアの方から言うなら、イデアが個物に臨在することによって個物はイデアと同じ本質をそれぞれの程度に応じて示すにいたるのである。またプラトンはイデアを範型とし、個物がそれを模倣するとも表現している。

・魂の不死説
以上からプラトンの魂の不死説もまた容易に理解されよう。プラトンも、ピュタゴラス学徒と同様に、魂の転生を信じている。対象が認知されるのはイデアが想起されることによってであった。このことは、魂が過去にイデアを直視したことを前提としている。魂はこの現世においてイデアを直視したはずはない。現世、すなわち可視的世界には、自体的存在は何もないからである。それゆえ魂はこの身体に入る前に、換言すれば前世において、イデアを直視したのでなければならないこと必然である。魂はイデアの知識を持ってこの身体に入ってきたのである。魂に前世がある以上、後世のあることもまた容易に理解されよう。魂にとってこの身体は一時の仮住まいにすぎないのである。

・善のイデア
プラトンはイデアの間にも位階を与えたようである。その細部は明らかでないが、イデアの最高位に彼は善のイデアを設定した。善のイデアが真理と認識の最高の原理であるという。「知られるものに真理を与え、知るものに知る力を与えるものを善のイデアであるといいたまえ」とプラトンは『国家』の中で語っている。しかしプラトンは善のイデアが何であるかを積極的に規定することはできなかった。彼はそれを現象界における太陽にあたるものとして、比喩的に語るにとどまっている。現象界において太陽があらゆるものを生成させ、認知させるように、善のイデアはイデア界にあって一切のものを存在させ、認識させる存在と知識の最高原理であるという。

参考文献『西洋哲学史―理性の運命と可能性―』岡崎文明ほか 昭和堂

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↓(不定期)

分有説もまた有名である。「このバラ」が美しいのは、美のイデアを分有しているからで、バラを通じて美のイデアを想起するからだ、ということになる。イデア論の問題の一つに、プラトンは醜いもののイデアをあえて想定していないようだった、という点がある。「塵芥のイデア」は存在するのか、といった問題である。(もちろん、何にでもイデアを想定したことについては、アリストテレスの反論が待っているが。)だが「この中で最も赤いバラ」「二番目に赤いバラ」「三番目に赤いバラ」(赤いの部分を美しいに変えてもよい)というとき、赤のイデア(美のイデア)の分有の程度によって、説明できないだろうか。すると、塵芥のイデアのあるなしは別として、醜いものにも、美のイデアがほんの少しだけ分有されている、だけど本当に微少だが、といった、苦し紛れの説明も可能なのではないか。
「模倣」(ミメーシス)については簡単にしか触れていないが、重要な概念である。プラトンは『国家』10巻で「芸術は自然のミメーシス(模倣)だ」と言い、自然美の優位を主張している。芸術美・自然美に興味のある方は『国家』10巻をどうぞ。1巻から読んでいたら、タイヘンですので。


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