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男女の友情は成立するし、愛情と友情は同じもの

 誰もが一度は考えたことがある内容を、今更になってやってみる。
(記事全体は13000文字ほどですが、最初の結論までは1500文字程度です。なお、後半は性的な話とそれに対する筆者の不勉強ゆえに、偏見が多少ありますので苦手は方はご注意ください。)

①「愛情と友情はどちらが優れているか」
②「愛情と友情の両立は可能か」
③「異性間の友情は成り立つか」
④「異性間の友達は成り立つか」

 まずは、簡単に回答を。
①問いが間違っている
②問いが間違っている
③成り立つ
④成り立つ

 それでは順番に考えていこう。

 ①②に関しては、その理由は同じだ。それはつまり「友情とは愛情の別名」だからだ。愛情という大枠の中に友情が含まれると考えてもいい。友と称する存在を意識した愛情を、友情と呼んでいるだけなのだ。同じもののため、比較することがそもそもおかしいのだ。
  同様に③が成り立つ理由も、友情は愛情と同じためだ。異性間に友情=愛情がなければ、情に支配されている人間という種が、ここまで存続できるはずがない。
 ④に関しては、当然といえば当然だ。関係性に名前をつけているだけであり、相手と合意がとれていればそれだけで成り立つ。
 が、実を言うと合意も関係はない。

 異性間の友達が成り立たないと考える人の理由として、恋人などを意識して友達でいられなくなるからという意見がある。つまり、その差は生物としての男女の性差が根拠としてあるとしているわけだ。しかしこの考えはその点でしか考えられていないと言わざるを得ない。
 例えば「父親は母親といえるか」という問いとその本質は同じなのだが、こちらの問いにも「いえる/いえない」の意見は割れるだろう。というより、問いがおかしいと感じる人も多いだろう。まぁ、続けよう。
 「いえる」派は、父親にも母親としての機能が果たせると考える人だ。まず、親となっている時点で男が子を産めないなどは考慮する必要はない。授乳に関してもミルクという代替手段がある。
 「いえない」派は、この性差や名称でしか考えていない人だ。
 しかし、「父親も母親も親といえるか」という問いであれば、まず間違いなくどちらの派閥の人も「いえる」と答えるはずである。これを③④の内容に当てはめると「同性の友達との間に生じる情と異性の友達との間に生じる情は”同じ情”といえるか」となる。「父親は母親といえるか」を「いえる」と答えた人なら、こちらに関してもすんなりと「いえる」と答えられそうだ。
 どちらも「いえない」と答える人は、”同じ情”の部分が違うと考えたはずだ。しかし、これはやはり性差や恋愛への可能性があるかという意味合いでしかないと考えられる。まだ納得出来なれければ質問を少し変えてみよう。
 「同性の友達の間に生じる情と異性の友達との間に生じる情は”必ず違う情”であるといえるか」だ。
 この質問ならほぼ「いえない」になると思う。これを「いえない」と答えなくては、雌雄関わらず異種族(ペットなど)を友だちと称する際に生じる情も、性別の判明していないネット上の相手に対する情も、バイセクシュアルという男女のどちらにも愛情や性的欲求を生じる人たちが友達に抱く情をも否定することになる。

 つまり、友達と称する関係性を構築するにあたり必要となる何かしらの情がそこにはあり、そこに性別は関係ないが性差があるがゆえに、その情を変質させたり、感度を鈍らせたりといった影響が与えられていると考えられる。
 そしてその情こそが「愛情」であり、「友情とは愛情の別名」なのだ。


 ここまででとりあえずの結論は出ている。ここから先は、更に詳しく持論を述べていく。
 
 以後、愛情という表記しかしていない場合にも、その意味には友情も含まれる。

第一部 愛情の因数分解

 さて、まずは愛情と友情の違いは名前だけだとしたが、愛情についてもう少し説明しなくてはならない。
 一般的に語られる愛情とは、恋人に対して抱く感情や親が子に対して抱く感情のソレを呼んでいる。また、友情はその対象が友人である場合だ。この時の愛情というのは、そういう単一の感情があるのではなく、その対象者(恋人や友人)との関係性を深める中で生じる思考や態度や性格などの、いわゆる価値観というものの相性が良い要素が集合して形成される感情である。そのため、何か一つの要素に注目しその有無で愛情を語ることはできないし、人によって定義も考え方もバラバラなのは当然のことだ。
 しかし、バラバラとは言っても、ある程度の共通点は見いだせる。それは、愛情を形成する各要素がどういった感情に因るかという点に注目することで見えてくる。

受止感情と要求感情

 愛情を形成する各要素が生じる感情とは、「相手の存在、言動、趣味嗜好、過去・未来を全て受け止めて、その上で、良いことを相手にもたらしたり、相手のためになることを善しとした感情で、この情により導かれる言動は、全て相手のためにある」と私は定義し、これを受止感情と呼ぶことにする。ものすごく簡単に言い換えると、「相手のためを思っていること」となる。
 友情はこの「相手」の部分を友と読み換えるだけだ。愛情や友情は簡単に言うと、受け止めることがポイントとなる。
 受け容れると受け止めるは違う。受け容れるは、何から何まで相手の望み通りにするようなニュアンスがあるが、相手の望み通りにすることが相手のためにならないことはある。そういった場合に是正することもまた、愛情に繋がる。故に、受け止めるという表現がより適切である。

 こう考えた時に当然思い浮かぶのが、この反対のことだ。それはつまり、受け止めてもらうこととなる。これを受止感情の定義の文言に当てはめると次のようになる。(こちらは敢えて受け容れるの表記にしている。)
 ○○とは、「自分の存在、言動、趣味嗜好、過去・未来を全て相手に受け容れて欲しいと思い、自分にとって良いことを相手にしてもらったり、自分のためになることを欲した感情で、この情により導かれる言動は、全て自分のためにある」となる。こちらはそのまま自分の欲望を満たすためのものである。
 この受止感情の対となる感情の名前は欲情だ(異性を求めるという意味ではなく、純粋な意味で欲しいと思う感情のこと)。分かりやすくするなら、この「相手」を恋人と置き換えると、それは恋情という言葉になるだろう。ただ、この場では欲情という言葉はややこしくなるので、この感情を受止感情と対をなす意味で要求感情と呼ぶことにする。
 全てを受け止めるという受止感情と、全てを受け容れて欲しいという要求感情。この2つは、あらゆる関係性や事柄に対して、それぞれが独立して必ず存在している感情であり常に変動し得る。そしてこの2つの感情のバランスにより、その事柄の最終的な立ち位置(愛情に繋がるかどうか)が確定される。同じ事柄でも対象者によってそのバランスは違うし、同じ対象者でも事柄が違えばその立ち位置は変わる。

例えば
事柄A「喫煙」事柄B「甘いものが好き」
対象 自分→甲、乙の2名
自分はタバコが嫌いで甘いものが好き
甲は、タバコを吸うが甘いものが好き
乙は、タバコは吸わないが甘いものが嫌い

自分は甲に対して、タバコは受け止められないし、甲にタバコを止めるよう要求したいので、要求感情が勝り、愛情に繋がらない事柄。
乙に対しては、タバコは吸わないので受止も要求も必要なく、愛情に繋がり得る事柄。
自分は甲に対して、甘いものが好きというのを受け止められるし、要求をする必要がないので愛情に繋がる事柄。
乙に対しては、甘いものが嫌いなこと自体は受け止められないが、要求しても仕方がないので愛情には繋がらない事柄。

 自分が甲乙とどちらと愛情(あるいは友情)を育みたいかは、自分の価値観によるので判定はできない。一見すると、乙の方が当たり障りない気もするが、甘い物を一緒に食べ歩くのが愛情を感じる最大要因であったならば、甲との方が親密になり得る。

 繰り返しになるが、愛情は受止感情や要求感情のバランスにより決定された事柄などの要素が集まって形成される。

図で考える

 前の項では、一方的に受止感情と要求感情の動きを考えてみたが、これらの感情は関係性に影響を与えるものである以上、双方向的に考えるべきことである。前の項の喫煙の話では、甲が喫煙が出来なければ絶対に愛情が湧かないという価値観かもしれない。いくら自分が甲に愛情を抱いても、関係性の構築はなされない。
 ここでは、双方向的にその事柄がどの立ち位置にあるかを比較して見ていこう。

 受止感情と要求感情を極端にしたほうが理解しやすいので、仮に数値を設定しよう。
 2つの感情ともに0から100の範囲の値をとり、0から49までの時は、これらの感情は無いとして、51から100の時は有るとする。ちょうど50の時は有無の判定はしないものとして扱う。そうすると2軸を持つマトリクス図が描ける。受止感情を横軸、要求感情を縦軸とする。
第一象限:受止感情も要求感情も有る
第二象限:受止感情は無いが要求感情は有る
第三象限:受止感情も要求感情も無い
第四象限:受止感情は有るが要求感情は無い


例として各象限に適当に点を打ち、数値も入れた。

 以下、恋愛関係を思い浮かべてもらったほうが理解しやすい。

第一象限「相思相愛」:対象のことを受け止めるつもりであるし、対象にも自分のことを受け容れて欲しいと思っている。言うなれば、愛されたいし愛したい関係性となる。ギブ・アンド・テイクを成立させたい関係性となる。

第二象限「利己的」:対象のことを受け止めるつもりはないが、対象には自分のことを受け容れて欲しいと思っている。これは、非常に利己的な関係性を持ちたいということになる。

第三象限「無関心」:対象を受け止めるつもりも、受け容れて欲しいとも思わない。つまり無関心である。

第四象限「献身的」:対象のことを受け止めるつもりであるが、対象には自分のことを受け容れて欲しいと思っていない。献身的な関係性を持ちたいということになる。


 ある二人の関係性をこの象限に当てはめて考えると、その組み合わせは10パターンとなる。
 A〜D群までに分けた。良好そうな関係性の順に挙げている。恋人関係をイメージしてもらうとよいだろう。

A群 (良好的な関係性)
「相思相愛」×「相思相愛」
 文字通り相思相愛
「献身的」×「利己的」
 尽くしたい/されたいの噛み合った二人
「相思相愛」×「献身的」
 欲してくれても良いのにと片方が少し思う
「献身的」×「献身的」
 ひたすら受け止め合戦

B群
「無関心」×「献身的」
 尽くされてるわー、知らんけど
「相思相愛」×「利己的」
 ちょっとは受け容れて欲しいと不満が出る

C群
「利己的」×「利己的」
 利害関係のみの関係性、クール

D群
「無関心」×「相思相愛」
 頼むから構ってくれるな
「無関心」×「利己的」
 利用しようとしてきてるな、うざ
「無関心」×「無関心」
 関わりなし、空気

 良好な人間関係を構築するには、一部の例外を除いて受止感情が必要となる。相手のことを受け止めないで、自分の要望だけを聞いてもらおうなんて、そんな虫のいい話は無いのだ。

 そして、これらの感情は関係性を構築していく中で常に変動する。
 良好な関係性を築く場合は、自然と相手と同じ象限に収まるかA群のいずれかの関係性になると考えられる。そうでない場合、どちらかあるいは双方に関係性を維持していくのに苦痛が伴いやすいからだ。

関係性を深める=象限の確認と遷移

 受止感情と要求感情はあらゆる行動の動機となり得る。これはどちらか片方のみで動機足り得る事もあれば、双方が同時に出ることもある。

 例えば、挨拶だ。挨拶をするのは、相手の存在を認めること(受止感情)と、自分の存在も認めてもらいたい(要求感情)という意味合いがある。これは「相思相愛」の動機によるものだ。
 自分から先に挨拶をして、返事がなければどう思うか。相手の存在を認めるという受止感情を示し、同時にこちらの存在も認めてもらいたいという要求感情を満たしたかったのに、相手は少なくともこちらの要求感情を満たすだけの受止感情を持っていない「利己的」か「無関心」な状態だったといえる。これは、良好な関係とは言えない。
 しかし、しつこく挨拶をし続けることによって、相手が受止感情を高めて挨拶を返してくれるかもしれない。また逆にいくら言っても挨拶を返してくれないから、終いには自分からも挨拶をしなくなったというケースもあるだろう。
 前者は相手が「相思相愛」の象限に遷移したと言え、後者は自分が「無関心」の象限に遷移したと言える。
 このようにして、対象と事柄について2つの感情を数値化してどの象限にあるかを定めて、その象限に即した言動をもって関係性を構築していく。

 前の項の「甘いものが好き」という事柄について、この象限でも考えてみよう。

自分は甘いものが好きという意思表示は、
受止感情50(意思表示時点では、相手というものが分からないのでニュートラルな状態、評価できない状態である)
要求感情51以上(自分の好みを言うのは受け容れて欲しいからであるし、極論相手に何を言われても自分のために甘い物を食べるという自分自身を受け容れて欲しいとも言える)
これは「相思相愛」か「利己的」のどちらかの象限に立ち位置が決まる事柄といえる。

そして、この意思表示を受けた、甘いものが嫌いな乙は2つの感情がどのように生じるか。

相手の甘いものが好きという要求感情に対しては、受け止めないでいるということはあまり無いだろうから受止感情は51以上になりそうだ。乙の要求感情にあたる甘いものが嫌いというのは、理解してもらわなくてもいいと思えば、その値は50未満になるだろう。つまり、乙にとっては「甘いものが好き」という事柄は「献身的」な象限にある可能性が高く、自分と乙の組み合わせは、先に示した良好な関係性のA郡(「相思相愛」×「献身的」または「利己的」×「献身的」)になる。
 好みが違うからと言って、相性の良し悪しまでは語れないのは想像に難くない。

 「甘いものが好きか」という事柄から、「食の好み」という大きな分類へと繋がり、それはやがて、恋人を意識した間柄なら「食生活」に、友人を意識した間柄なら「会食時の店選び」などの関係性の構築に大きく関わる内容へと集約されていく。つまり、愛情に繋がるのだ。

 そもそも、人のことを好きになったりする場合、何か単一の事柄をもってそうなることは多くない。好ましく思う複数の事柄が集まり、情が徐々に発現されていく。
 「彼はちょっと口は悪いけど、根は優しくて頼りになる人だから好き」なんてのも、複数の要素から、愛情に繋がる事柄と繋がらない事柄を総合的に判断した上でのもので、誰もが自然と行っていることだろう。

 はたして、こういった事柄の判定に男女の区別はあるのだろうか。いや、ない。

性の観点が複雑にしている

 男女間の友情や友達関係について語る時に、性別が違うからこそ成立しないという意見は多い。だが冒頭でも確認したとおり、この友情(愛情)が発現する前段階では性別は関係ないのだ。
 挨拶の例や甘い物の例を見てもわかるように、受止感情も要求感情も性別は関係ない。性別や性的な要素が愛情に繋がることは当然あるが、その愛情になる前段階では性別は関係ないのである。言い換えると、異性と性的関係を持ちたいという要求感情は想像出来るだろう。だが、この前段階として、人と性的関係を持ちたいという感情、もっとマイルドに言うと人に触れたいという感情があったはずだ。おそらく無意識的にこの前段階を省略して関係性を築こうとしているのだと思われる。わざわざ考えなくとも、人(自分)は異性に触れたいと考えていると思い込んでいるのだ。

 もう少し整理すると、異性に触れてほしいという感情を抱くのは、人に触れてほしいという要求感情を抱いた後に、その対象を考えた際に同性の対象のその全てに対して要求感情の数値が低く、発現しなかっただけと捉えることが出来る。そして、自動的に「人」という大きな分類から「異性」という細分化した分類で判断をしはじめる。
 バイセクシュアルの人たちは、人に触れてほしい要求感情だけで完結しており、性別で判定を加えないのだと思われる。そうであれば、どちらの性別に対しても同様に愛情を感じるのは理解出来る。
 また、アセクシュアルという性的欲求が無い人も存在する。この人たちの場合は、人に触れてほしいという要求感情を抱かないと考えれば、その存在は容易に認められるだろう。

ここまでのまとめ

 私の持論をまとめると、
・愛情と友情は同じである
・その対象により名称が恋人や友達となる
・愛情とは、複数の要素からなる感情である
・その感情らは、受止感情と要求感情のバランスと相手との相性により愛情に繋がるかが変わる
・この2感情には性別というものは関係がない
よって、この2感情から端を発する愛情や友情には本来性別による差は発生しない。
(差があるのは、そう感じる個人の価値観の問題である。)

 乱暴な言い方をすると、恋人も友達も同じなのである。そうはいっても直感的に恋人と友達は違うと考える方も多いだろう。この理由は、性的な要素を愛情に繋がる(絶対的と言えるほど)強い要素と見ているかどうかで変わる。

 性的な要素に受止感情が高くなる相手であり、相手も同様であれば、それは恋人とも友達とも言える関係性である。そこにはやはり、性別は関係ない。
 もう少し言うと、恋人とは性的な要素を受け止められる友達。友達は性的な要素を受け止められない恋人と言ってもいい。これらの関係性の相手は、性的な要素を完全に除いたとしても、そこに愛情(友情)はあるはずなのだ。



第二部 そうはいっても性問題

 ここからは、性的な内容が増えるので苦手な場合は読まない方がよいかもしれない。第一部で結論は出ている。
 あくまでこちらは、男女間の友情が成り立たないと考える人がどうして存在するのか。また、恋愛よりも友情のほうが価値あるものと感じる理由は何故なのかを掘り下げて考えてみる。


 まず、性的な行動の動機がどんな感情にあるかを考えてみよう。挨拶と同じように考えるのだ。

 性的な行為により、相手に快楽を提供したいという思い(受止感情)があり、自分も快楽を得たいと思う(要求感情)。もちろん、他の要素があることは理解しているが、これがきっとスタンダードだと思うので、これに沿って考えることにする。

 次に、性風俗従事者と客をイメージしよう。これは、客の性的行為という要求感情を満たすためのものだ。その点に関しては、従事者は受止感情を有している可能性は高いとみてよいだろう。
 しかし、それ以外のこと、特にプライベートな事に関しては一切介入してほしくないと考えていると思われる。当然、従事者自身も客に受け容れてもらいたいなどとは思わない。性的行為もその他のコミュニケーションも、ほとんどの場合ビジネスライクに対応するだろう。つまり、従事者の客に対するコミュニケーションのほとんどの象限は受止感情があり要求感情がない「献身的」か受止感情も要求感情もない「無関心」だと思われる。
 他方、客は多様で全ての象限の人間がいると予想される。これは性的な事柄に限らない。

 「利己的」な客は、事が終わればサッと切り替えてそれで、終わる。害は少ない。
 「無関心」な客は、従事者にとって無害だろう。
 「献身的」な客は、従事者にとってはありがた迷惑な感じだろうか。従事者は客に何かを求めているわけではない。
 「相思相愛」な客、これが最も厄介だと思われる。事が終わると(自分の要求感情が満たされると)、従事者のことを受け容れようとしたり、良いことをしようとしたりして受止感情を示そうとしてくると思われる。
 この業界では説教おじさんと呼ばれる、ことが終わったあとに説教をしてくる迷惑な客がいるらしい。その心理は正直理解できないが、なんらかの受止感情を見せようとしているのではないかと考えられる。繰り返しになるが、従事者はそんなことを一切求めていないので、ただただ迷惑であろう。
 
 性的な行為さえすれば、恋人である。と、考える人はおそらくいないだろう。通常、性風俗従事者と客が恋人などのそれと同列に語られることが無いのは、そこに愛情が無いと思われるためで、それはつまり、愛情に繋がる要素の象限の不一致にほかならない。性的な行為という要素だけは、相性が良かったとしても、それ以外に通じ合うものがないからだ。

 逆に言えば、性的な行為も象限の相性さえ一致すれば挨拶同様、誰とでも起こりうる。商売という性質上「利己的」と「利己的」な関係で結ばれるのが、性風俗としては正しい関係性ともいえる。だが、完全に感情を殺して割り切ってしまえば、どの象限だろうと可能ともいえる。
 つまり、性的な行為の存在のみをもって愛情を語ることは出来ない。

 性的関係と言うと抵抗が大きい人もいるだろうが、こう言い換えると理解しやすいかもしれない。
 お笑いを一緒に見たい友達。映画を一緒に観たい友達。海に行きたい友達。本屋に行きたい友達。お酒を飲みたい友達。それぞれ別の人間を思い浮かべる人もいるだろう。あるいは、友達皆で鍋しようと決めていても、あいつだけは呼びたくない、といった事柄でもよい。
 事柄によって相手の選択がされるのは、受止感情や要求感情が対象ごとに差があるからといえる。少なくとも友達と称している関係性であれば、こういった事柄のそれぞれには、共に楽しむことで愛情を感じているはずなのだから、そこに友達によって差が生じるということは、事柄を個別に判定していると言えるのだ。

 これはつまり、関係性に基づく行動のその全てがこの2つの感情によって動機づけられ、それらを複合的に考えた時に一致するものが多かったり、自身の価値観と近い人との関係性を、友達や恋人と呼んでいるに過ぎないということを示す。そして、友達や恋人だからといって、あらゆる行動を共にしたいと思う必要もない。
 こう考えれば、性的関係を持ちたくない恋人や、性的関係を持っている友達というのも観念できる。やはり、性的な行為の有無だけで愛や恋は語れないのだ。

性的な行為の象限遷移

 「エッチまでしてあげたのに(裏切るなんてヒドい)」とか「一度寝たくらいで彼氏面するな」などの文句は、こういった象限の相性の不一致の経緯があるから生じると考えられる。
 ちなみに、前者は性的な事について「利己的」な関係性の発言。後者は「無関心」か「献身的」な関係性の発言となる。
 重要なのは、その人が性的な行為についてどんな価値観を持っているかではなく、その時のその対象との関係性においての発言であるという点だ。

 つまり、この2つの発言は同一人物が別々の人に言うこともあるし、同一人物が同じ対象に向けて時期をズラして(関係性が変化して、象限が遷移して)発言することもあるのだ。
(前者は、価値ある身体を提供したのは見返りを求めている=自分のためになることを目的としているので、受止感情ではなく要求感情となる。後者は、相手が欲する自身の身体を提供したが、自分は相手に何も求めていないので、性的な行為だけでは恋人という枠には当てはまらないということ。)

 ただ、異性の友達において、純粋な友情(愛情)に動機づけられて性的関係を持ってしまったときに、友達のままでいられなくなるのは、互いに要求感情をも意識してしまうためだと思われる。そこに象限の齟齬が生じてやりづらくなる。この齟齬を埋めるように、恋人などの関係性へ遷移しなくてはいけないという気負いが生じる。
 恋人が別にいた場合には、倫理的観点から受止感情や要求感情の発露に抵抗が生じ、結果象限の食い違いが他の事柄でも生じて居心地が悪くなり、関係性が悪化していく(友達でいられなくなる)ように感じられる。そのため、異性間の友達関係は成り立たないという言説が生じるのだと思われる。


友達の方が格上に感じる理由

 恋人よりも(特に同性の)友達の方が価値があると感じる場合があるとすれば、その理由としてこういったものがあると考えている。

 それは、異性間の方がその親密度を図るのに身体をさらけ出すという方法が、楽で信用度も高いからだろう。特に女性の場合だ。
 哺乳類としての構造上、生殖時に女性は受け入れる側にある。すると、自然とその身体をさらけ出す必要が出てくる。またそれは、無防備な状態となるということで、さらけ出せる相手を信頼しているという状態とも言える。
 異性間において性的関係が成立するということは、それだけでお互いを信頼し合っていると取ることもできる(女性は、身体をさらけ出す。男性は、女性がそうすることのリスクを承知した上で、さらけ出していることについて信頼されていると感じる)。愛情や友情には信頼できるかどうかは重要な要素と考えられる。

 性的関係まで到達すれば、その時点では他の事柄での象限一致を必要だと判断しなくなる。ここまでで関係性の発展を止めてしまう傾向にあると考える。
 つまり、恋人という関係性の名称を与えて、そこから意識的に発展させようとしない人間も出てくる。ヤリ目(性行為を目的とした恋愛関係を築こうとする人)という言葉が男性にしか使われないのも、こういった要素があるように感じる。

 これが同性同士の場合はどうだろうか。お互いに体をさらけ出しても、普段見せない無防備な部分を見せ合うという意味での信頼はあるかもしれないが、基本的に意味はない。だから、関係性を確立するための手段としては不足する。あるいは必要としない。
 そのため、他の事柄で価値観の一致を探す必要が生じ、その結果として親友と呼べる象限の一致が多数ある関係性へとなっていくのだ。

 つまり、異性間における恋愛関係の方が同性間の友情関係の構築よりも簡単であると推測できる。そうなった場合、同性間の友情の方が希少性という意味で価値があると考えるのも無理はない。
 このことから、愛情と友情は同じという認知が無く、それぞれの情を対象とする恋人と友達に差があると感じた場合に、友達の方が価値があると思うのは理解できる。愛情を感じる事柄が(同性の)友達に対してのほうが多いのだから。

 恋人や伴侶を、親友と称することがあるのは、こういう性的関係における信頼以外にも精神的な価値観や受止感情・要求感情の象限が一致する事柄が多いからだと言える。そして、「親友×恋人」という関係性を望む者が多いことも、その元となる感情が同一であると考えれば納得できる。それは単に、恋人ともっと親密になりたいということである。象限の一致する事柄を増やして信頼し合いたいからである。


 もちろん、友達や恋人という名称に機能を固定化させている考え方の人もいるだろう。こういった人は、性的関係を持つのは恋人のみであると定義していれば、性的関係を持つ友達の存在は認めない。また、倫理的にそういう関係を持つのは1名であるべきだと考える人もいるだろう。
 こういった意味では、小学生くらいの子供のほうが、恋人という概念や倫理観がまだ固定されていないという点で柔軟である。1番好きな人は佐藤さん、2番目は田中さん、3番と4番は順番つけれないけど鈴木さんと渡辺さん。このような事を言う子はいなかっただろうか。
 きっとこの子は、性的関係を持たずしてこの4人と恋人関係を構築できるだろう。たとえ、それが幼稚で大人から見たらおままごとのように見えたとしても、本人達にとっては等身大の恋愛であるように感じられる。

友達つくるのって大変だと思う

 次に、自分は友達だと思ったけど相手はそう思っていなかったなどのケースを考えてみよう。

 これまでは、挨拶と性的関係という極端な例を用いて説明してきたが、これらの感情の作用する事柄は多岐にわたる。
会話の内容、好みの食べ物、好きな教科、仕事への取り組み方、お金への考え方。などなど。
 仮に、いま挙げたもののうち、3つ相性の良い象限同士であれば友達と称すると考える人間と、全てが合致しないと友達としない人間同士なら、その意識が食い違う。逆に、たった一つの価値観さえ合えば、友達と称する人だっている。

 成長するにあたって、友達と呼べる存在が構築しにくくなるのは、こういった要素があると考えている。

 面倒なのだ、相手の価値観を窺って、それを調整するというのは。これらの価値観が一致するほど、信頼関係や親友レベルというものが高くなると思われる。ただ、そういったものをお互いに揃えていくのには時間がかかる。だから、要素を切りとって、仕事上の付き合いだったり、子持ちという共通項のみで繋がったり、趣味においてもSNSでその部分だけ繋がる相手を求める。

 恋人と友達を作る上での違いがあるとすれば、将来的に結婚したり子を成したりといった観点があるだろうが、仮にそういったものを求めず、性的な観点は排除すれば、恋人と友達という区別をする必要はないはずである。
 寂しさを埋めるのに恋人である必要はない。楽しさを分かち合うのに恋人である必要はない。
 でも、友達は作るのが大変なのだ。時間がかかってしまうのだ。それに比べると、恋人と呼べる関係性を構築するほうが楽なのだと思う。



 恋人とか友達などの名称で呼ばずに、個人に対して持つ情が真の愛情と呼べるものではないかと思う。この人だから、受け止めたい。この人だから受け容れたい。そう思える関係性が良いものだと思う。

第二部まとめ

1.性的関係をもつだけで恋人という関係性を手に入れた気になれる
2.友達をつくるには時間も手間もかかる
1.2より、友達の方が価値があるように感じられる
ただし、元となる情に優劣はない。

最後に

 今回は異性愛者のみを想定して記述しているが、本質的には同性愛においても同様である。相手の性別や自分の性別に関わらず、また性的指向などにも関わらず、個人としてその人をどう思うか(主に愛せるか)という点がポイントなのだ。同性愛というものの認知をあげようという運動が盛んではあるが、そもそもとして、異性愛や同性愛という表現自体が適切でない。個人に対しての愛というもので構わないのだ。

 極端なことを言うと、こんな風に考えている私は、世界中誰とでも友達にも恋人にもなれる。基本的に何でも受け止める「献身的」な人間であるし、基本的に人のことが好きだからだ。無論、私の持っている僅かな要求感情を受け止めてくれる人に限定されるが。(これがなかなか居ないもんだね。)
 結局のところ、好きだと思ったら素直に好きって言うのが一番いいと思う。適切なコミュニケーションを取った上での「好き」に嫌悪感を示す人はそうそういないと思うんだよね。もうそれだけで愛は成立するのかも。
 世界中の人が世界中の人を好きになれれば平和になるのかなぁとか、思ったりもするけど。まぁ難しいか。


 最後までお読み頂きありがとうございます。


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