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五感

 一際目を引いたのは、生け簀の中を天に登るかのごとく跳ね泳ぐそいつであった。
 師の双眸が爛々としたので、私は網を構える。この閉じた世界しか見たことの無いそいつは、捕らえられることのその意味を知りはしない。師の急かすような眼差しで我に返り、そいつを引き上げた。私は、確かな目を持っていた。

 そいつは、泳ぐことすらままならぬ小さな水槽に留め置かれても、自身がどんな運命を辿るか皆目見当がつかないようだ。間近で見るその眼は、ギラギラと強い光を湛えている。その眩さが無性に腹立たしく思え、砥石の上をなぞらせる手に力が入ってしまう。
 今宵、師の恩人がお見えになる。そいつは、その方が召し上がる晩餐のその贄となる。師はその大役を私に任された。師は、確かに目を掛けてくださっていた。

 いよいよという段になって、そいつは暴れだした。物言わぬそいつは、怒りか恨みか、そういったものをその閉じることの無いまなこに乗せて、無遠慮に睨みつけてきた。
 まな板に載せても観念する様子はなかった。そいつの頭に布巾を掛け闇に沈め、包丁を構えると、その磨かれた刀身に私の顔が映った。そこには、そいつが辿るであろう未来の、生気の欠片もない淀んだ暗闇のみがあった。
 手元のそいつはまだ暴れて、勝ちの目を探していた。そいつは、確かに光を求めていた。

 師に、私では役が務まらぬことを申し出た。師は悟ったように、その落ち窪んだ目で私を一瞥し、ただ頷くだけであった。
 鷹は眠り、梟が月影に舞う。
 私は瞳を閉じ歩き出す。
 すると、金木犀の香りを纏った風が吹いた。それは、母が子の頬を両手で包みこむような、柔らかな優しい感触であった。
 彼方から水面を強く蹴り上げるような音が一度だけ響くと、何かが天高く登るような、そんな気配を感じた。
 閉じた両眼から流れる涙は、確かに、確かに塩の味がした。

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