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欅坂46はバレエ団だ

 欅坂ファンやバレエファンの双方からお叱りを受けそうなタイトルをつけてみる。しかも、私はどちらにも精通していない。バレエに至っては観劇したことすらない。
 まぁ、いいだろう。ここは私のnote舞台。無様に乱れ舞うのもまた一興。

きっかけ

 ある日、仕事の休憩時間中にYoutubeを見ていた同僚が画面を指してこんなことを言った。
「このダンスってどういう意味だと思いますか?」
 普段からこの同僚とは音楽の話をしていたし、私が歌詞考察をするのが好きなのも知っていた。曲の考察を依頼されたこともある。だから、この曲ってどういう意味だと思いますか。これは、理解できる。が、ダンスは専門外だよ、ダンスは。
 でもまぁ、やってみようと思ったのだ。その動画がこちら。

初視聴

 動画を見る。歌詞は書いてあるが読む気は起きない。音楽は聞こえるが、まぁよくわからない。必然的に意識は彼女らのダンスパフォーマンスに向く。集中してダンスを見る。

 あかん、さっぱりわからへん。

 これが率直な感想である。だが、私が思っていたアイドルのダンスというものとは、少し違うようにも感じられた。
 同僚はきっと、ビシッと鋭い考察をしてほしいのだろうと思うと、いい加減な回答はできない。
「持ち帰って検討させていただきます」

ひとり検討会議は2時間に及ぶ

 音楽に合わせたダンスというのは表現の一つだ。ならばそこに意味を見出すことは間違いではない。
 それは分かるのだが、私の中のダンスのイメージは5,6人の若者が統一された動きの美しさを表現したり、アイドルが可愛さをアピールするためだったりの手段として捉えていた。

 彼女らのダンスは、違った。
 統一された動きはある。見せ場もある。だが、私が抱いていたアイドルのダンスとの決定的な違いがそこにはあった。
 それは、全員が役者であるように見えたこと、彼女らが主役ではないということ。つまり、音楽に合わせてダンスをしている彼女らを見せるのが目的ではなく、音楽を表現するためのダンスなのだ、とそう感じさせるものがあった。
 大人数で、音楽とその物語を体を使って表現する。これはバレエだと直感した。

 ダンスの意味を見つけるために、私は歌詞考察をしなくてはならなくなった。音楽を表現するためのダンスならば、その依りどころのほとんどは歌詞となる。

 作詞家、作曲家が作った「筋書き」を振付師が「演出」し、彼女らが「役者」となって、舞台で「踊る」。
 筋書きを知らずして、演出を理解できるはずもない。

 2時間ぶっ続けで聴き、歌詞考察を終えた。(なお、ミュージックビデオは見ていない。あれを見るとその情報に引っ張られるからだ。ミュージックビデオも一つの表現である以上、絶対的な正解ではないと私は考えている。)

再視聴

 満を持して件の動画に挑む。歌詞は読まずとも頭に入っている。声は聞こえなくてもいい。メロディが聞こえて演技さえ見られればそれでいい。
 すると彼女らの動き、文字通り一挙手一投足のその意味が見えてきた。
 俯くタイミング、表情、手の伸ばし方、衣装のフードを被る意味、駆け寄り抱き着くという印象的なシーンの意味、サビでの避雷針を模した手の形、ラストシーンの振り向きのカットには歌詞にも載っていない力強いメッセージが確かに在るのを感じさせられた。

 なるほどなと思った。こういう表現もあるんだな、というものだ。これはつまり、私が歌詞から解釈した筋書きとの一致点と相違点をダンスを介して比較していることにほかならない。そこには、歌唱も台詞も要らないのだ。

口パクだって揶揄してるんじゃないよ

 バレエとは、歌唱も台詞もない舞踏劇だ。アイドルの音楽は、当然ながら歌詞があり歌唱もする。そもそもの定義とは外れてしまうのだから、アイドルのそれがバレエと同じな訳がない。と、思う人もいるだろうが、少しここで考えてみよう。

 クラシックバレエの有名な演目に『白鳥の湖』というのがある。
 さて、この演目の主人公の名前はご存知だろうか。そう、オデットだ。しかし、彼女の名前は上演中に呼ばれる事は無い。それなのに、何故我々は名前を知っているのか。オデットがどういう運命を辿るかも知っている。それは、物語として知っているからだ。元になったとされる童話もあるし、プログラムにあらすじが載っているだろう。
 なんてことはない。歌唱も台詞も無いのは、もう既に共有されていることを前提に表現する必要がないからだ。言い換えると、そのあらすじとダンスによって表現されるものだけで、その物語を感じ取って欲しいからだ。

 あらすじは細部まで記載されず余白がある。その余白は各々が自由に思い描き補完していく。
 音楽も多様な解釈の余地がある。各々が自由に物語を綴る。
 その余白を体現したのが、舞台で踊るバレエであり、彼女らのダンスなのだ。

トウシューズは見えずとも

 もう一つバレエをバレエたらしめるキーアイテムとしてトウシューズが挙げられる。このトウシューズを抽象化してみよう。

 バレエダンサーとしてのユニフォーム、美しい爪先立ちが出来る機能性、履きこなすための鍛錬の必要性と誇り。こういった要素があるように感じられる。
 では、欅坂の彼女らにとってのトウシューズとはなんだったのだろうか。
 それは、アイドルであること。特に(アイドルとしては異質と評される事の多かった)欅坂であるということ、それ自体が彼女らのトウシューズだったと私は考える。

 メンバーは、オーディション等を通してその座を勝ち取った者たちがほとんどであろうから、個々人の容姿や能力については自信があるのだろう。だが、アイドルが乱立する昨今においては、その程度は何の優位性もないのは明白だ。では、容姿以外の面はどうだろうか。

 私が持っていた先入観のように「アイドル」だから歌唱やダンスのレベルは高いものではないだろう、という固定観念的評価は無視できない重みの足枷となる。だが、楽曲が与えられるのはアイドルになってこそだし、そうなってはじめて評価されるステージに登れる。つまり、アイドルであることが舞台に立つ為の条件ともなるし、厳しい評価にさらされる原因ともなる。
 ただアイドルやグループ名を冠すれば終わり、ではなく、そこに到達してこそ生じる責任や誇り。そういったものを理解して、恥じる事のないように自分たちの役割を演じきる、という思いが彼女らからは感じられたのだ。
 だから彼女らのトウシューズは美しく、そして似合っていたのだ。

4000文字の報告書を提出

 歌詞考察とダンスの考察を文章にした。口頭で伝えた方が細部のニュアンスも伝わりやすいだろうが、彼女らのダンスを見た私は……文章で表現したくなったのだ。

「すごかったです。なるほどでした! この曲、色んな解釈してる人がいるみたいですけど、斬新な内容でオモシロかったです!」
 私の数時間は同僚のこの一言に集約された。

 その言葉は、私のトウシューズの靴紐をかたく結び直すには十分過ぎるものだった。


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