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演出って難しいんだよ

 あのドラマの演出いいよね〜。うんうん、いいよね〜。ううん? そもそも演出って何さ?

演出とは、物事を表現するときに、それを効果的に見せること。

Wikipediaより引用

 ふむふむ。表現を豊かにするために用いるなんらかの行動や視覚効果や音響効果などを指すわけだ。文章でも出来ることだね。
 大事なのはあくまでも表現したいことだよね。

 たとえば映像作品で、愛し合う二人が見つめ合ったときにBGMで「エンダーーーーーーーーーー」って流れるのも、見つめ合う二人の頬が赤く染まったり体からハートが飛び出すようなCGも、駆け寄って抱き合うかと思ったら、そのままジャイアントスイングしてから抱きしめるという演技も、全て演出ってことで、あくまでも表現したいのは、愛し合う二人ってことだよね。

 でもさ、ちょっとイヤだな。これは好みの問題もあると思うんだけど、BGMじゃなくて見つめ合ったわずかな時間だけ喧騒が消えて、その瞬間に陰っていた月が顔を出して、抱きつこうとしたのを一方が遮って、そっと頬を撫でて見つめて、月だけを映すカメラワークにして抱き合うシーンは映さずに音声だけで愛を囁かせる。なんていう演出のほうが好き。愛し合う二人を表現しつつ、どんな風に愛し合うかはご想像にお任せしますっていうね。

 結局大事なのは、そのシーンに至るまでの流れなんだよね。コメディタッチだったら前者の演出のほうが向いてるだろうし、純愛系なら後者のほうがいい。それぞれ表現したいことに適した演出を選べばいいわけだ。

 ここを失敗すると、全てが台無しになる。意味がないってのならまだマシで、「このシーンでジャイアントスイングは絶対にありえない。恋愛を馬鹿にしている。許されない」とか言われたら目も当てられないでしょ。コメディとしてもそうだし、愛し合う二人を表現したかったとしてもね。

作り手は理解してほしいんだ

 で、何が言いたいかと言うと、演出は理解してもらわないと助長だったり意味のないものと扱われたりするものと、理解してもらわないと変な誤解を招くものがあるってこと。演出する方としては、ここの差はあまり意識してない場合もあるかな。というよりは、演出のその全てを理解してもらいたいというスタンスでいると思う。もちろん、「演出であると理解しやすいような演出」を心がける必要があるんだけどね。ちょっと試しにやってみようか。


A「オレ、やっぱお前しか愛せないわ」
B「ボクも同じ気持ち。A以外何もいらない」
C「どうでもいいけど、誰かナプキン持ってない? 忘れてきちゃった」
D「はいこれあげる。ところで、隣町の名門校との合コンセッティング出来たけど、AもBも不参加でいいってことね」
A・B「行くわ」

即興会話劇

 さて、この文章も演出が入っているんだけど、どう読み取れるかな。

「表現したいこと」
この4人の仲の良さやじゃれ合い
「演出」
①AとBの恋愛関係を匂わすやりとり
 →一人称による叙述トリックで、男性同士のかけあいと見せかける
 →純愛を匂わせる
②Cのナプキンという言葉
 →登場人物に女性がいることを匂わせる
③Dの合コン発言とAとBの返事
 →学生である可能性を示唆
 →演出①の否定。①自体が遊びであることを示唆

 と、このような具合。だからこのシーンは、恋愛に興味のある女学生が楽しくおしゃべりしている。くらいに読解してもらいたい文章。

 ところが、この演出も問題点がある。①から④の演出全てを通して判断してもらいたいんだけど、個別に判断されてしまう場合がある。それによって出てくる可能性のある意見や疑問点を挙げてみようか。

「一人称と性別を短絡している。固定観念の押し付けだ」
「AとBは男であり、CとDは女性である」
「同性愛を馬鹿にしているのか?」
「生理の貧困って社会問題しってますか?」
「ナプキンってなんのこと?」
「登場人物全員ふしだら」
「登場人物全員男じゃね?」

 明らかな誤読もあれば、飛躍させすぎなものもある。この中で実はとても大事なのは、
「ナプキンってなんのこと?」コレ。
 ナプキンという言葉に生理用品も含まれるということを認知してもらっている事を前提にした演出なんだけど、この会話劇がもし学食などでの食事中だったとしたら、このナプキンは紙ナプキンを指しても成立する。そのように解釈されたとすると、作者(私)としてはこのナプキンという言葉で女性をイメージしてほしかったものの、登場人物全員男性であるという解釈も可能なわけ。だからこれは、作り手側の演出上の不備といえるんだよね。
 そうはいっても、この会話劇は切り取ったものだから通常は前後の展開でこのABCDが女性であることはきっと分かる構成にはするだろうけどね。繰り返しになるけど、そのシーンまでの流れや全体感が演出の理解には大事ってこと。

(あとは、受け手の知識量や単純な読解力にも影響を受けるのは言うまでもないかな。この会話劇を小学校低学年に読ませても、ナプキンも合コンも理解できないだろうしね。これはターゲッティングやゾーニングによって回避できるけど。)


演出に流れは重要だ

 演出は表現を豊かにするもので、そして理解してもらいたいもの。でもって、そのためには流れは大事ってのは分かってもらえると思う。
 じゃあ次に、受け手にその流れをどう読み取ってもらうかという問題に直面しちゃうんだ。辟易するね。3つほど例を挙げて考えてみようか。

①最初は子供向けのアニメーションを流して食いつかせ、途中でショッキングなシーンを挿入して心的外傷を与えるのを目的にした悪質な動画(通称『エルサゲート』)

②恋愛ものの映画だと思って見ていたら、突然メインのカップルが非業の死を遂げた

③高い授業料を払ってマーケティングの高尚な話を聞けると思っていたら、低俗な喩え話を聞かされた

 これらは全て流れをおさえるという下準備なしに、あるいはそれが不足した状態で負の感情を刺激されるという点で共通している。

 ①の場合は、仮に子供向けでもなく騙す意図もなく、そのショッキングなシーンによってその後に意味があるなら演出のうちに入るけども、そうではないだろうからこれは演出には含まれない。何故なら、ショッキングなシーンを見せることが「目的」になっているから。演出は表現を豊かにするための「手段」でないとダメなんだ。

 そういう意味で②の映画に関しては、そのカップルの死により物語が進展したり視聴者に考えてほしいことがうかがえたり、この流れなら死んでしまうのは必要だった。という解釈が充分にできる場合もあるので演出と言っていいね。

 そして、③の某牛丼屋さんの例。世間を賑わすパワーワードだったけど、表現したいことが「マーケティング戦略」についてなのは読み取れるよね。でも、読み取る前に嫌悪感が出ちゃうのも分かる。だから、①の『エルサゲート』のように演出と理解せずに判断を下すというのは理解できる。そりゃそう感じたら全力で批判するよね。

 でも本当に意味なくあの表現をしたのかと言うと、そうではない。いやいや、そんなことは分かっていて、言い方や喩えの内容が悪いんだ、との声もあるよね。もっともだと思うよ。
 でもこの発言は、②の映画のように必要だと思ったからああいう言い回しをしたんだと思うよ。本人も「不適切な言い回しで不愉快な思いをされた方がいたら申し訳ないんですが」と前置きをしたそうだし。前置きを入れるということは、「これから自分が発する言葉が受け取り方によっては悪い言葉になる”演出”」であることの表明であって、この点でも①の『エルサゲート』とは違うのは分かるし、敢えてあの言い回しをしたのも理解できる。まさか、言葉通りに変な薬を食べ物に入れていると思われるとは考えてもいなかったんだろうね。
 もちろん、前置きすれば何を言ってもいいわけじゃない。②の映画の非業の死でも、自然災害なのか、殺害されたのか誰に殺されたのかでも、その意味合いは変わってくる。いずれにせよ、下手くそな演出は興ざめだし、ちゃんと匂わせておいてほしいし、それでもやっぱり許されない表現というのはあるだろうし。

 映画と違って、講義というのはリアルタイムでの表現の場だから、会場の空気感や流れを読んで演出を変える必要はあったんだろうね。
 マーケティングをほんのちょっとかじった事がある私の憶測で言うと、あれだけ色んなものを切り刻むほどのシャープな喩え話は、その場で考えたんじゃなくて事前に考えていたと思うよ。どうしても言いたかったんだろうね。だから、前置きまでしたってわけさ。パワーワードは演出にもってこいだからね。

 かの人を擁護するつもりはないけど、一表現者としては、絶妙な言い回し(だと自分で思っているの)だったら、ついつい言いたくなるのは分かる気がする。かの人に足りてなかったのは色んな流れを読む力ってことになるのかもね。

どう受け止めるかは自分次第

 表現されたものをどのように自分が解釈して、今後に活かしていくかが何よりも重要なことだと思うんだ。嫌悪感をむき出しにして、内容を吟味しないのは単純にもったいない気がする。しっかり考えて、美味しいところだけ頂くのがスマートなやり方かもね。

 言葉自体に罪はないけれど、パワーワードや強烈な表現というのは、理解してもらえないと誤解を生みまくる危険性もはらむってことは、良い教訓になったかな。
 良く切れる言葉とナイフは使い方に注意が必要だね。

 さて、「表現したいこと」は書ききったぞ。演出するのは手間暇かかるし、まったくもって難しいもんだね。


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