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こんな世界滅びてしまえ、改め

こんにちは。

今日はですね、私の話を書こうかと思います。
え、タイトルがおかしい? 確かにRPGのボスキャラみたいな感じがしますね。ちなみに私は職業選択できるゲームなら、道化師とか遊び人を選びます。一人では役立たずなので冒険の仲間が欲しくなります。記事内容とは全く関係ないですが。

さて、この記事で書いているのは、私が社畜の道を選んだ理由私の働くことについてや、他者に働きかける意義的なものです。

徒然なるままに……書いたら長くなった……



就活失敗からのひこもり生活からの社会の歯車

私は自分の記事で度々、自分大好き、自己肯定感高い、なんでもやっちゃおう!みたいな感じの雰囲気を出すことが多いんですけど、20歳前後の頃は語れるような人生ではありませんでした。(今となっては、その当時の自分のことも大切で大事なものだとは思います。)良い機会なので書いてみようという試みです。


さて、その頃のメインイベントは私のなかでは就活でした。はい、全然ダメでした。私と近い価値観を持っている現役就活生や近い将来就活を始める人には絶望感を与えてしまうかも知れませんが……就活、もうね、無理でした。私の場合ですけどね。

自分の信念や思いを捻じ曲げてまで、自分を取り繕って良く見せることや、相手が望むだろう言葉を吐くことが耐えられない。頑張って頑張って自己洗脳の領域にまで自分をだまくらかして、必死にくらいついたのにお祈り(不採用)メールをもらうと、全てがどうでもよくなりました。

自分を歪めないと、あるいは着けたくもない仮面を何重にもして息苦しい状態でないと、ろくに生きていけないのだろうか。こんな世界なら滅びてしまえ。そう感じたものでした。

ところがですね。これって結局、社会という枠組みの中で生きるという選択肢しか見えてないので苦しむわけです。まぁ、そうは言っても、自立して自給自足して生きていけるほど逞しいわけでもありません。どこかで折り合いをつけて行かなくてはいけません。わかっちゃいるけど、そう簡単に行くならそもそも悩みません。

すると、次にこう考えます。

無理に生きている意味はあるのだろうか、と。自分が自分らしく生きられない。もはや「自分らしく」なんて言葉を使っている時点で囚われているわけですが、そんなことにも気付かずに生きながらえることに果たしてどんな意味や価値があるのか。こんな風にも考えました。

もしかしたら、今この文章を読んでいる誰かも似たような感覚を持っているかも知れません。残念なことに私は、そんな人にかける言葉はもっておりません。私の場合は単純に「それでも生きなきゃダメだな」と思えることがほんの少しあったに過ぎません。それは私の行動を制限する枷であり、生きていくという現実につなぎとめる鎖でもありました。ちなみに良いように言えば絆とも言えます。

ともあれ、何とかして生きていくことは選択するにしても、社会に弾かれた気分になった私は数ヶ月ひきこもりました。幸か不幸か、その生活が自分に馴染まなかったことと、有り難いことに私の力が欲しいという声をかけていただけました。

そうして、雇われとして社会の歯車になりました。自分を偽らずに、単純に私の持っている業務に関わりそうな能力という点を利用してもらったのだと思います。利用です。そこはドライな関係です。

そこで自分の勘違いに気付きました。社会において個性は必要がないのです。少なくとも社会とかその枠組みの中で、私が私である必要性はどこにもないのだと分かりました。誰でもいいのです。でも、そこにいるのは私なのです。だからこそ、私が出来ることをしていこうと思いました。歯車になることへの抵抗を歯車になってから始めたのです。


私が出来ることってなんですか

ところで私は、全世界が平和になりますように。とかは本気では思っていません。厳密に言うと、願ってはいますが無理なことはわかっているので考えません。いくら人間が鳥のように飛びたいと思っても不可能です。飛行機やらを開発して「飛ぶ」という機能を代替するくらいしか出来ません。平和もこれと同じで、実現出来るのはある限られた側面に限ります。私の場合のその側面とは、手の届く範囲の人たちが生きやすくあればいいな、というものが該当します。

本当の平和なんていうのは、ディストピア小説なんかに出てくるような、“神”が管理しているところにしかないと思っています(それが平和かどうかは議論の余地がありますが)。私は神にはなれませんし、誰かが神になれるとも思いません。ではそんな思いを抱えた歯車の私は、どうしていくかという話を続けましょう。


社会の一部になって、会社の一番下っ端として働くようになりました。10年以上前の話です。

同僚の何人かがサビ残(賃金不払労働)に苦しんでいました。喜んで働いていた私は彼らに対して、サビ残が嫌ならとっとと帰ればいいのにとか、残業代きっちり申請すればいいのにとか、効率よくやって残業しなければいいのに、などと思っていたものでした。口には出しませんでした。何故なら、返ってくる言葉は「それが出来ればいいんだけど(上司や会社が許さないよね)」だけだったので。

私から見れば、どうにもならないと決めつけて自分自身の嫌なことをし続けるというのが、とんでもない自虐行為にも映ります。子供のうちであれば逃げられないのは仕方ないとは思いますが、みな全員大人です。自分で意思決定ができるはずです。とはいえ、それぞれ事情もありますし、どうにか出来るほど世の中強い人間ばかりではないのは、皆様もご存知だと思います。

さて、彼らは私にとって手の届く範囲です。声をかけることも、業務を手伝うことも、愚痴を聞くこともできます。しかし、それらは根本的な解決にはなりません。それに、彼らを助けたところで、会社が潰れない限り同じ様に悩む人が出てくることは想像できます。彼らだけを助けるのは自己満足でしかありません。(その自己満足も捨てたものではなくて、私のおかげで仕事続けていますと言ってくれる人もいたりして、そういうのは純粋に嬉しかったりします。)

こうして考えていくと、解決するには会社やシステムを変えるしかないと気づきます。

では、変えるためにはどうすればよいか。とても簡単です。自分がそれらを作る側に回ればよいのです。作るまではいかなくても改善したり作り変えたりすればいいのです。

このサビ残の例で言えば、業務指示を与える側に回ればよいのです。残業代をしっかり払う。業務分担を適正にする。効率よくできる方法を確立する。アプローチの仕方はいくらでもありますが、絶対的に必要なのはその意思決定を下すポジションです。権力です。早い話が出世するしかないのです。

私が社畜の道を選んでいるのは出世のためです。出世してシステムを作り変えて、負担や辛さを感じる人を減らしたい。社内における私よりも職責の低い人たちは、私の手の届く範囲と言ってもいいです。私は私の手の届く範囲の人たちが住みよい環境を構築したいのです。そして、救いの手を求めている人(かつての同僚)も救いの手を差し伸べることに葛藤する人(かつての私)も現れないことが理想です。そのためなら、私はいくらでも働けます。でも決して、部下にはそういったことを強いることはしません。

たとえば、運動部の後輩が先輩に雑用を押し付けられて「俺たちもこうやってきたんだ、嫌でもやるのが伝統なんだ」とか言われるシーンあるじゃないですか。ああいうの、すごく不快なんですよね。お前がやられて嫌だと思ったなら、その決定権が自分に回ってきた時に止めればいいだろって思います。

なんでしょうね。「人にやられて嫌なことは人にはしない」というよく耳にする道徳が、社会とかの枠に入った時にないがしろにされる。これが気持ち悪くてしょうがないのかもしれません。


こういう感じのことを話すと、独立すれば?と言われます。しかし、それは意味がない。確かに独立して社長にでもなって、成功するかどうかはさておき私が望むものを作れたとしましょう。でも、今務めている会社の――手の届く範囲にいた――人たちはどうなるでしょうか。見捨てるようなことはしたくありません。

今務めている会社、私は好きです。経営理念や社会貢献の度合など総合的に考慮して、です。私が出世して、それこそ社長にでもなって、今よりも良いシステムに作り変えられたら、きっと素敵なことのように思います。同業他社には、グレーどころか真っ黒なことをやっていると噂が立つ企業も存在しますが、仮にそれらの会社を潰すほどになれば、そこに務めている人たちは短期的には職を失ったりして困るかも知れませんが、長期的にみればよい方向に向かうかも知れません。そして、この業界でやるべきことをやったら、更にその上を見据えるようになるかもしれません。政治家なんかで、民間企業で役職を上げてきた経歴のある人とか、そういう人が近いのかも知れません。私はそこまで考えていませんが。

これらのことを簡単に言うと、視野を広げるということになるのかもしれません。見える範囲と手の届く範囲が“徐々に”広がるということです。一気に昇ってしまうと見逃しが出てきそうなんで、それも嫌なんです。

上に昇ってから見ると、下にいたときに不満に思っていたことが、仕方ない避けようのないことだったとわかることがあります。そんなときには、システムを変えるわけにはいかないので、丁寧に説明するようにするのです。そして、かつての上司達も板挟みだったんだなあと思うこともありますし、説明不足だったことに憤ったりもしなくはないです。こういうことも上の立場にならなくては分かりません。


長くなりましたがこの見出しの「私に出来ることってなんですか」の答えは、「手の届く範囲の人が生きやすくなればいいなと思っている私なので、手の届く範囲を広げていけば、結果として生きやすいと感じる人が増やせる」んじゃないか、というものです。自己評価高い人間ですね。


ここまでくると次に浮かぶ疑問が、「何故、私がそんなことをする必要があるのか」となるとおもいます。次にいきましょう。


私が誰かに何かを訴えかけるその理由

私が誰かに社会に参加せよ、とかもっと深く考えよう、とか上から目線で記事にするのは2つの理由があります。一つは、その相手(当事者)のために。そしてもう一つが自分のためです。


相手のために言うのは、相手の視野を広げてやるためです。偉そうですね。でも事実です。こういう考え方もできるよ。こういう見方もあるよと伝えたいのです(あと、こういう見方が出来るのすごいでしょ!誉めて誉めて!もあります)。

それと、成り行きや視野狭窄による浅慮で決めた意思決定は弱いんですよ。自分を肯定していくのには弱すぎると思っているのです。その人が、その人の人生で起こることをすべて納得して生きていけるのなら放っておきます(ある意味最強で羨ましい)。ところが、少しでも後悔する可能性があるのならば、それはもったいないと思うのです。後悔のないように生きてほしいのです。

でも、この相手のためという感覚は近しい人くらいにしか持ちません。遠くの誰かなんて、割とどうでもいいです。(そうでもないと、地球のどこかで飢えに苦しむ人がいるからといって、食事のたびにいちいち心を痛めろとでも言うのでしょうか。そこまでの労力は割けません。)


自分のために、というのは少し複雑になります。

私は手の届く範囲が狭いです。なので社会全体を見渡して直すべき場所を見つけても、行動に移すことは困難です。だから、誰かにやってもらった方が合理的なのです。その誰かは個人だったり社会だったりするわけです。

この1年で、SNSなどを通して普段関わることのない人たちと交流し、手は届かなくとも見える範囲とその深度が増していきました。でも、到底自分一人ではどうにもならない。ですが、そこで困っている人はどこかの誰かの手の届く範囲にいるはずです。じゃあ、その困っている人に手を伸ばせる範囲にいる人が、困っている人を助けたいと思っていて、でもどうすればいいのか分かっていなかったり難しかったりするのであれば、そのための手段や考え方などのキッカケを提示することで、手を差し伸べたい人も差し伸べられる人も両方が良い方向に向かうこともあるかもしれない、と思いました。そして、その解決に向かった事実が、私の手の届く範囲の人たちの困りごとに役立つ時が来るかも知れないのです。私は今、その問題について真剣に考える事は出来ませんが、どこかの誰かが代わりに検討してくれたら私にとって有益なのです。だから、記事を書いたり投票したりするわけです。

分かりづらいかもしれないので、身近な例をあげます。

最近、私の生活圏でも電車の駅のホームドアが設置されはじめました。これは、なんのためでしょうね。色んな理由があるのでしょう。でもそれはきっと、困っている誰かがいて、それをどうにかしたいという人たちが訴え続けてきたことで、その手の範囲が社会全体へと広がっていったからだと思うのです。そのおかげで、私の身近な人たちが転落事故を起こすリスクは格段に下がるので私にとっても有益です。ちなみに、私自身は転落する可能性を考えて先頭に立つことはしないし、泥酔して千鳥足になるということもないので、ホームドアの恩恵はほぼありませんが、大いに賛成な施策です。そのために運賃が上がるのもやむを得ないと思います。

仮に私一人で管理統治する社会であったならば、ホームドアは確実についていないでしょう。でも現実にはこの問題に興味を持った人たちが話し合って――それはきっと自分たちのためにという利己的な動機によるものも多いでしょうが――その結果私も恩恵を受ける。それでいいと思うのです。


「人のためなら頑張れる」という言葉は私の中にはありません。「人のために頑張っている自分によって、自分自身が満たされるので、そのためなら頑張れる」のです。自己中心的な考えです。これは優しさではありません。よく誤解されますが。

また、私の中の価値観ではこれは使命感ではありません。だって生きることとほぼ同義なんです。「使命感を持って生きている人」なんて、いるにはいるでしょうが、多分それはしんどい。

萎れてる花を見て水をやることに使命感を覚えることはないのです。ただキレイな花を咲かせているのを私が見たいだけなんですよ。


価値観の押し付けと言われても

私は視野を広げることに価値を置くので、他の人にとっても視野を広げることは価値があると思っています。手を差し伸べるという表現はある意味で、この価値観を押し付けているとも言えます。価値観を押し付ける人は、果たして優しいのでしょうか。わからなくなってきました。

少なくとも私は、私が絶対的に正しいと思っています。しかしながら、私が正しくないということも当然起こり得ることはわかっています。だからといって、私が私を正しいと思うこと自体は私の自由です。

それを誰かがおかしいと言うのなら、私の価値観とその人の価値観とで鍔迫り合いの議論をしましょう。切り伏せたいわけではありません。私が議論する目的は、自分の切られた場所(論理の穴など)や拮抗する場所(共通点/対立箇所)を知ることで、より自分の正しさを確固たるものにしていくことです。場合によっては、相手の剣を丸まるコピーして拝借することもあります。自分流に打ち直すこともあります。そしてそれを私の腰に下げて冒険を続けるだけです。強い装備に切り替えていくのも冒険の醍醐味ですよね。


さあ、「こんな世界滅びてしまえ」と言うアナタの一面ラスボスをこらしめて、「こんな世界なら生きてみたい」というアナタそいつの理想を語らせましょう。そして、再び冒険へ。討伐ではなく、何かを見つけるための探検にしましょう。


“敗北 挫折 絶望がラスボスじゃねえ
自分自身にずっと負けてきた
勝てない訳ないよ自分なら
僕が一番分かってる 僕の弱さなら"

amazarashi『もう一度』作詞:秋田ひろむ



長くなりすぎました。私の価値観を垂れ流しただけの文章にお付き合い頂きありがとうございます。何か少しでも得るものがあれば幸いです。




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