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失言に繋がる発話と慣れの関係

 私の書く文章は基本文語調である。スマホで、入力はワイヤレスキーボード。キーボードを使えない時はフリック入力で文章を書く。
 試しに音声入力というのもやってみたのだが、これがなかなか難しいと感じていて、そのことについて文章にしたいと思っていた。
 そんな時に、こんなニュースを目にした。

 この案件自体に色々思うところはあるけれども、私が注目した意見はこちら。

(おそらくソシャゲ等の)ゲーム界隈では、特定のキャラや技術が無いとゲームに参加する資格がないという意味での「人権がない」という慣用表現が多用されており、普段から何気なしに人権という言葉を使っていたため、このようなを発言してしまったのではないか。

WEB上のコメントを意訳

 そうなんだろうな、と思った。
 例えば、子供がその意味もよく知らず、大人が聞くとぎょっとするような言葉を使う場面はある。もちろん、子供に悪気はない。
 彼女に悪気があったかどうかはさて置き、知らなかった/思いもよらなかったは、ある程度仕方がない面もある。だが、大人や責任ある立場の者であれば、残念ながら知らなかったでは済まされない。この際に、発言の経緯を酌量されることはあまりなく、結果のみで断罪される。

 この件に限らないのだが、こういった失言をしてしまうその背景にはどういったことがあるのだろう。
 色々な原因が考えられるだろうが、今回はそういった分類を考えたのではなく、失言となるような言葉を発してしまう原因の一つを考えた。
 結論を先に言ってしまうと、よく考えてないから、という当たり前の結論にたどり着くのだが。


私が記事を書く場合

 記事を書くとき、文章にしていくときに、頭に浮かんだ思考をまとめていくだろう。この時に浮かぶ思考の言葉たちは私の場合は口語となる。それを、文章にするときには文語に変換して入力(キーボードorフリック)する。

 例えば

「どうしてこんなこと言ったんだろう」
「身内ノリって、全世界に向けて配信してんだから身内じゃないよね。ってか、身内でもアウトだろ普通に」

と、このように浮かんだ口語的思考を、

「なぜ彼女はこのような発言をしたのか。後に”身内ノリ”という言葉で釈明しているが、不特定多数が見るネット上に配信する行為を”身内”とするには無理がある。また、”身内”だからといって何でも許されるとも限らない」

という文語調に変換して入力することで文章にしていく。

 この時の脳みその働き方をイメージすると

脳内:口語的思考→文語変換→推敲・修正
行動: 考える →考える →入力しつつ修正

 このようになる。少なくとも私が文語で入力する際には、こういった流れな気がする。
 この過程は無意識で処理されているが、文語変換の部分で語彙や言い回しの選択をする必要からボトルネックが起こりやすく、入力速度は落ちる上に修正が度々発生する
 逆に、口語的思考をそのまま文字に起こす会話形式などは書きやすい。文語変換が必要なく、自問自答を会話に落とし込むだけでほぼ成立する。会話なら余分なものがあっても許されるし、足りない部分を後で補うのも自然だ。

 

 これが音声入力となるとどうなるか。
 そもそも音声入力をしたいタイミングは、キーボードを使えず、スマホを触れなかったり触る頻度を少なくしたい時である。そうなると、修正のためにカーソルを動かしたりするのは本末転倒となるので、出来るだけ整った文章で入力したいと考えてしまう。(実際は修正不可避なんだけどね。)

脳内:口語的思考→文語変換→推敲→推敲……
行動: 考える →考えながら発語入力が続く

 短文の連続ならいざしらず。まとまった文章にしようと思うと、文章を言葉として発しながら次の展開や語彙選択などをしている状態が続く。考えることと発語を区切れずに同時に処理しなくてはならない。

 めちゃくちゃ疲れるんだわ、コレ。
 普段しない不慣れが原因か、あるいは脳科学的にそういうものなのかは分からないが、発語しながら考えることを続けていると脳みそが悲鳴をあげる。
 書く文章がもともと口語調の方なら、もしかしたら違和感なく使いこなせるのかもしれない。考えて口語調にしている場合は難しいかもしれない。
 ともかく、私にとっては非常に難しい。
 考える方に脳の処理能力を割くと発語が遅くなる。すると、音声入力の待受が途切れたり予測変換が暴走したりして、かえって効率が悪くなる。
 他方、発語に処理能力を割くと、それは考えることを諦めることに繋がる。


 さて、私の場合は発信する場がnoteしかないので、極論文章入力は好きなようにしたらよいわけだが、世の中には発話による発信をその場で求められる形式も多い。
 お笑い芸人やコメンテーター、Youtuberなどの配信者などがこれだ。
 彼らはその時々に応じて的確な発言が必要になる。その能力こそが評価対象ともなる。
 事前に考えをまとめておくなどの準備はある程度できるものの、一般人からのコメントなどの変化球をきれいに打ち返す技術が必要不可欠となるだろう。

 空振りは論外、ファールもだめ。ホームランにはならずともヒットを量産できなくてはならないのだ。
 いかなプロ野球選手といえども、練習せず変化球にも慣れずにこれを打ち返すことは出来まい。

頭の回転が速いという評価

  頭の回転が速い。これは主にその場でのコミュニケーション能力を評価する時に使われるものだ。会話やチャットなどのリアルタイムコミュニケーション時に使われるポジティブな評価の言葉で、前述の職業の人たちに求められる能力とも言えるだろう。

 この言葉は前後に分けてその意味を考えると分かりやすい。
「頭の回転」
・本質の理解
(知識や経験に基づく未来の予測なども含む)
・(問題解決に向けての)判断力、決断力
・(上記の)伝達や表出が可能なこと
「速い」
頭の回転の条件を素早く実行できること

 「頭の回転」にあたる部分はまさに思考のことだ。そのレベルは個人ごとに違うので単純比較は出来ないが、「速い」かどうかは判断しやすい。
 そして「速い(さ)」は慣れることでその評価を上げることができる。

慣れるということ

 件の彼女は格闘ゲームが強いそうだ。
 格闘ゲームというのは、相手の次の動きを予測し最善手の判断をしつつ、コンマ1秒の世界で正確なレバー操作やボタン入力が必要となってくるものだと私は理解している。つまり、頭の回転が速くないと強くはなれない。
 この場合の頭の回転とはあくまでゲームに関することだ。そして速さとは慣れが大きく関与する。

 慣れによる速度の上昇は、言い換えると思考を省くことだ。余計なことを考えずに最短距離で正解に辿り着くことだ。
 しかし、慣れには良いものと悪いものがある。例えば、悪い慣れには偏見がある。良い慣れには、心臓マッサージなどの人命救助をイメージしてほしい。前者は、個別に見たり考えたりするのを省いて印象を決める行為。後者は、心肺停止という現象に対して医学的知識により、まず何よりも心臓を動かすのが肝腎という選択をする行為。

 彼女は悪い慣れが出てしまったのかもしれない。身長の高低をネタにしてしまう悪い慣れと、ゲーム用語の「人権がない」という皮肉めいた言葉――普段から使い慣れている(だろう)その言葉が、どういった結果に繋がるか考えることを省いてしまった。
 それは、見逃せばいい大きく外れたボール球を無理やり打ちにいって、自軍のチーム席の監督に大ファールを当ててしまう結果となった。

 ゲームのことではなく発信する立場というものに対して、速さを落としてでも頭の回転をよくすべきだったのだろう。よく考えるべきだったのだろう。だが、今となってはもう全てが遅い。

考えながらが無理だからといって、考えることをやめてはならない

 だから私は音声入力をやめた。厳密にはメモとしてしか使わないと決めた。
 文語で思考することは私には出来ないし、演出目的以外で口語の文章を書くことはあまりないだろう。
 それに、口語的思考から文語に変換する時にこそしっかり物事を考えているように感じるので、それを手放してしまうのは勿体ない気もする。
 慣れなくていいことは慣れない方が良い。

 頭の回転が速いことは求めない。時間がかかっても、何度修正しても、納得のいくものをアウトプットしていこうと思う。

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