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同性婚等が推進されることによる懸念

 先日、どこぞの区議が同性パートナーシップ制度に対する考えをツイートしたことが話題になっていた。
 私はこのツイート内容自体に同意はしないが、(言葉や表現は攻撃的すぎるが)制度を考える議員としてはありだと思っている。ツイートしたこと自体も、議論を呼びかけるという目的であれば、やり方が下手だとは思うが問題はないと思っている。

 このニュース記事やコメントなどを読んで感じたことを書きたいと思う。

話題になること、議論することは大事

 結婚は、病院の面会などの信用問題や、相続や保険などの経済的な問題など多岐にわたり、子供に関することに限ったことではないが、それでも子を産むことができないという観点はよく語られていて、関心を寄せるところであろう。

 これに対しては、養子をとったり精子提供や代理母を使えば達成できるという言説が見受けられる。パートナーとなる二人の遺伝子が入っていなくても子を持ち育てることは出来るということだろう。
 これは、その通りであると思う。結婚というのが子のためにある制度という側面が強い以上は、それに准ずるパートナーシップ制度も、その手段を問わず既に子を持っていて養う状態にあるならば、これは法制度で異成婚と同等に扱ってよいと考えられる。

 ただ大きな違いは、(前のパートナーとの連れ子などを除けば)子を持つということがパートナー間のみでは達成し得ないため誰かの存在が必要であること、特別養子縁組制度を経ないケースにおいては戸籍の問題、精子提供などでは血縁の問題などの倫理的な問題が内包されることなどがあるだろうか。
 慎重に議論を重ねる必要のある部分であるとは思う。


それは代替手段ではない

 私が特に気になっているのは、子を成せないという意味での、パートナー間で完結的には達成し得ないという点だ。これは、協力者や孤児等の存在を「はじめから」当てにしているように感じられるからだと思っている。病気などの理由でパートナー間で子を持てない人が特別養子縁組で親になるというのとは違うと考えているのだ。
 婚姻前から子を作れないことがわかっている異性のパートナー同士は、病気などの理由がなければ自分たちで達成したいという意思はあっただろう。あくまでも、その他の手段というのは、交配という手段に対しての代替手段という認識ということになる。
 一方、同性のパートナーの場合は、生物学的観点では子を成すことはできないので、代替手段ではなくその手段しかない、という違いがあり、このことを「はじめから」と表現している。

 こういう違いがある気がするので、私としては同性婚や同性パートナーシップ制度を議論する上では、子を如何にして持つかという点だけは、子をどう養っていくかや諸制度の取り扱いをどこまで認めるかといったこととは、分けて考えてほしいと思っている。具体的には、安易に「次世代に引き継げない」とか「養子をもらえば済む」とかで批判し合うのは違うのでは、と思っている。(意見を述べる事は有益、批判だけは無益。)
 そして、これ以外の多くの争点は、社会の変化とともに自然に受け容れられていくと思っている。

 本記事の主旨は、子を如何にして持つかという点と、「はじめから」他人の協力を当てにしている事で、どんな問題が起きかねないと私が思っているかである。そのことについて、下記に述べていこう。


彼らは受け皿になりたいか、なれるのか

 統計では、児童施設で暮らす子供は約4万5000人いるそうだ。そして、里親に出される人数は年間約7000件。特別養子縁組に至っては、約500件程度である。日本においては、同性カップルの里親は数例しかなく、特別養子縁組に関しては制度上認められていないので、これは異性間パートナーの元へ行った数字と見てよい。そしてまだ3万人以上の施設で生活する児童がいる。(数字は厚労省データより)
 同性のパートナーがどの程度子供を持ちたいと考えているかはわからないが、数字だけを見ると、施設で暮らす子供たちの受け皿になるのかもしれない。ただ、それは楽観的に捉えすぎな気もする。
 施設にいる子供の半数以上は、虐待などの精神的苦痛や何かしらの不幸な体験をした子だ。受け入れる側はそういった子供のケアをしていかなくてはならない。こういった議論で忘れられがちだが、最も大事なのは当事者である子供たちだ。子供を持ちたいから利用するという考えだけでは、余りにも自分本位な気がする。

 また、当然子供にも選ぶ権利がある。”普通”の家庭環境でない状態にいた子らが、どんな選択をするかは私には分からないが、その”普通”はその子供が決めることで、親になりたい人や社会が押し付ける”普通”ではないはずだ。
 特別養子縁組の年齢制限が6歳未満から15歳未満までに引き上げられたが、これによりどう変化していくかも注視する必要がありそうだ。

結果、命のビジネス化に拍車がかかる


 そして全国的に同性パートナーシップ制度が確立していくとどうなるかを考えてみよう。
 (厳密には同性パートナーに限らないが)自分たちでは子を持てなかった人、子供を諦めていた人が子を欲しがる、その可能性が増える気がする。
 子を望む人が増えるということはビジネスになり得る。需要と供給がうまれる。需要が高まると”新規参入”が増えるかもしれない。

 本来、児童施設で生活する子というのは、望まれない子や、何らかの理由があってそうなって”しまった”という子が多いだろう。ところが、ビジネスになるとそれを次々に産み出すモデルが誕生してしまいかねない。
 代理出産、精子提供など、現時点でも経歴の虚偽や親権などで問題になっているものが、より組織的に、より悪質になってしまうと予想できる。

 また、社会全体の価値観の形成にも悪影響がある気がする。ペットショップのように”血統書付き”を求める傾向が強くなったり、異性間パートナーにおいても子を産んだ際に何か不都合があれば、合法非合法問わず里親に出せばよいという安易な考えが生まれたりと、不幸な子供の総数が増えてしまうように感じられる。
 このような意味で、個人の幸福を追求した結果、命のその取り扱いがぞんざいになってしまいはしないか。と、私は懸念している。
 杞憂に終わればそれがよいが、社会としての在り方を考えるためにも、議論の余地はまだまだあるように思う。例えば、産む人と育てる人の完全分業制というのを提唱する人がいても、反射的に批判したりせず、耳を傾けて検討する必要性があると感じている。
 右に倣えではなく、議論し尽くした上で方針が決定されることを望む。


反出生主義的観点から

 最後に、私がこのような考えを持つに至った要因の一つである、反出生主義的観点からも同性婚と里親や養子縁組について考えてみよう。

 反出生主義からいえば、同性パートナーシップ制度などによりそのムーブメントが後押しされれば、彼らの目指す形の一つであるところの、個人の幸福は追求しつつも、(交配が成されないことにより、出生数の低下に寄与する可能性が高いという点で)人類としては緩やかな絶滅に向かうという理想に近づく気はする。
 また、生まれてしまった命を大切にするという観点でも、自分は子を産まないという選択をしつつ、里親になったり養子を取ったりして子を育てるということは、矛盾していないし奨励され得ることだ。社会的にも評価されるし、子にとっても愛情を注いで育ててくれる良い親になりそうな気もする。

 しかし、前述のようにビジネス的な側面で新しい命が産み出されるのは、反出生主義的には特に許せないことであるはず。とすると、彼らは同性婚などについてどのように考えているのだろうか、という疑問を持った。
 私の極端な予想を基にしているので、根本的に間違っていると言われるかもしれないし、分けて考えるべきと言われればそれまでではある。だが、どちらかというとこの主義の方たちは、個人の幸福よりもマクロな視点で考えている傾向が強いと思われるので、興味深いお話が聞けそうな気もする。



 命が関わる問題なだけに、色んな意見を聞くのは有益なことだと思う。私自身、そういう思いでこの記事を書いている。
 この記事や区議のツイートが、同性婚等の当事者もそうでない人にも何かを考えるきっかけになれば、それは価値のあることだと思う。


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