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多様な価値観を眺めたいと思った
少し前から、多様な価値観を持った人達と話す機会を得た。多様な価値観がどれくらい多様かだが、問題のない範囲で……書くことが出来ない。
問題のない範囲で書こうとすると、それはアルファベットの羅列になったり、誤った認識の素となる漢字の集合だったりしてしまう。
私は彼(女)らをそういう風には書けない。書きたくない。
彼(女)らはとても魅力的に私の目には映った。しかし、その理由は彼(女)らが持つ障害や特性によるものではない。
もちろん、そういった特性などが、マジョリティーの中でしか生活していなかった私にとって、ある意味で奇妙に映るのは事実だ。でも、だからといってそれが必ず魅力的につながるわけでもないし、醜い点に見えるわけでもない。あくまでも私が惚れたのは彼(女)らの個性である。
個性が先か特性が先かを語るつもりはない。どちらが先だろうが、それら全て踏まえて彼(女)らだ。特性を美化するつもりはないが、それに振り回される事実もそれを受け容れて生きていく姿にも、共感出来るし理解もできることばかりだった。
障害やマイノリティーな特性を持ち合わせていないと思っている私の立場から見て、彼(女)らはとても、同じだった。延長線上でもなければ、乖離しているわけでもない。明らかに同じフィールドにいた。
もしかしたら、特性を持っていないと思っている立場の私から、「同じ」なんて言っても「何もわかっていない、分かるわけがない」とお叱りを受けるかもしれない。だが、このように感じた私の気持ちは、何人もどんな言葉であっても、これを侵すことはできない。「違う、分かるわけがない」とそれでもあなたが言うのなら、その言葉が出てこなくなるまで付き合おう。
※
今日の集まりは、私は完全に部外者だった。
多様な特性を持った人たちが、働くことについて、その難しさや改善案や社会へ望むことを語っているそばで、何不自由なく当たり前のように働いていて、なおかつ仕事が大好きと豪語する私が、どんな言葉をもって、彼(女)らと同じ空気を吸えばよいというのか。
と、最初は思うのだろうと思っていた。そして、申し訳なく感じるのかもしれないと思っていた。
ここで感じてしまう申し訳なさとは、きっときれいな感情ではない。
私が障害を持っていなくてごめんなさい、とか。私では理解しきれなくてごめんなさい、とか。そういったものであり、それらはきっと美しくない。
例えば、道端で急に聞いたことのない異国の言葉で何かを訊ねられ、「ごめんね、何言ってるかわからないわ」と言って立ち去ってしまうような、そんな無責任さがそこには感じられてしまう。なにか出来ることはないだろうか、と一瞬でも考えることならきっと誰だって出来るはずなのに――
だが私は、そんな風に”何かに”申し訳なく思う自分がそこにいないことを確信した。いないことに安堵した。
私は彼(女)らの話を傾聴し、最大限の自分の感想を口にした。嘘偽り無く、思ったことを述べた。照明を少し落とした店内で、聴覚に難がある特性ゆえに、話し手の言葉を聞き漏らさないよう耳をすませている彼(女)らの顔は真剣だった。それだけで充分だった。
彼(女)らが、私の言葉を聞いて何を感じたのかなんて実際のところはわからない。そこは重要じゃないのだ。
多様性という満天の星を眺めると、その大きさや輝き方に目がいってしまうのかもしれない。
だが、全てのその星は、ただ光っているというその事実は、揺るぎのない何よりも大事な共通点であると感じた。
彼(女)らの光輝く顔がまた見たくなった。
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