後悔しない意思決定を

ワクチンを接種したくない人がいます。この人たちに対して攻撃的な言動をする人もいます。また接種証明書なるものの作成も議論にあがっています。私は、上記登場人物や、証明書の是非を議論する人それぞれの価値観を認めます。

ただし、どの目線でその選択をしたかの理由は必ず自分で決めてほしいと思っています。

つまり、ワクチンをうつと決めた理由。
ワクチンを打たないと決めた理由。です。


ワクチンを打たないと決めた人は、その理由がある人が多いと思います。でも、打つと決めた人、あるいはもう打った人はその理由が曖昧な人も多いのではないでしょうか。

目指すべきは、
「いろんなことを考えた結果、私は私の意思でワクチンを打ちますor打ちません」と、
一人一人がしっかりと決めることです。結果がどうなろうと全て自分の責任になり、みなそれを受け入れられるはずだからです。理屈の上では。


ワクチンの効能やら安全性やらを語るつもりはありません。
後悔しない意思決定を考えた記事となります。

目線=優先順位、重要視するもの

ワクチンを打つ理由としての目線は、下記のように分類されると考えます。

自分と身近な人を考えた目線
・自分の発症を抑えるため
・自分の発症を抑えることに伴い身近な人への感染リスクを低減させるため
・周囲へ接種済みを告知することでメリットがあるため
・周囲へ接種していないことを知られるとデメリットがあるため
社会全体を考えた目線
・自分の発症を抑えることで医療体制に負担をかけないため
・集団免疫獲得などの、接種者が増えること自体にメリットを感じているため
・経済活動を再開させるため

もっと多様な目線があることでしょう。それら全て間違いではありません。

また、どれか一つの目線しか持っていないということもないでしょう。複数あるなかから優先順位をつけて意思決定を行っているはずです。そこに優劣はありません。

自分がいったいどこに価値をおいているのかをしっかり認識しましょう。
とりあえず打った人からすれば、目線も理由も違えども打った(打ちたい)という意思は同じなため、コミュニケーションは成立します。やがて「みんな打つべきだ」という思想がうまれます。これが多数派を占めるのは道理です。


次にワクチンを打たない理由としての目線を挙げます。

自分のことを考えた目線
・体質的に打てない
・即時的な副反応が怖い
・安全性に不安がある
・打っても打たなくても同じ
 (効能への疑問でなく、
  何をしても感染するときは感染する
  という諦めの感覚)
社会全体を考えた目線
・全体的に信用できない(いわゆる陰謀論)
・重大な何かが起こったときに安全装置としての役割を自身が果たすため

打たない理由は基本的に、自分自身のことを考えたケースが多いと思います。社会はワクチンを推奨しているのですから、それは当然です。そのため、社会全体の目線はやや非論理的です。誤解がないよう、何度でも言いますがそれ自体は悪いことではありません。


理由=意思決定の根拠

 「○○だから打ちますor打ちません」
「○○のために打ちますor打ちません」
この「だから」「ために」に相当する部分です。この部分、目線をしっかり決めておかないと、議論が空中分解する場所です。

「私は自分の身を守るために打ちます」
「私は自分の身を守るために打ちません」

どちらも「自分の身を守る」という理由は一緒ですが、最終的な意思決定が違います。もちろん、どちらも認められる価値観です。
ここを分かりやすくするために目線が必要なのです。

「私は基礎疾患をもっているので、発症リスクを低減できるという目線で、自分の身を守るために打ちます」
「私はアレルギー体質なので、ワクチンによるアナフィラキシーショックのリスクが高いという目線で、自分の身を守るために打ちません」

どちらも筋が通っています。

この意思決定をした人に対して、
「経済を回すために」とか
「医療現場の負担を減らすために」とか
「打ってもなるときはなるんだから」とか
「打つことによるリスクよりも、発症した時のリスクの方が大きいんだから、(打つリスクは受け入れたほうが合理的だよ)」とか
「みんな打ってるんだからor
 打たない人もいるんだから」とかの
他の目線を持ち出したり、他の理由を持ち出して攻撃的な言動をするのは、その人の価値観への冒涜です。

もし、言われたらこう言い返しましょう。

「そんなことはわかっているが、私はそこを重要視していない」と。

こう言わせしめるのが、自分で決めるということになります。

自分で決める=責任を負う

従業員に接種を義務付ける企業も出てきました。先述のとおり、そういう思想が出てくるのは道理で、そこに善悪の価値観を差し挟む必要はなく、差別だのどうのを語るのはナンセンスです。

それよりも問題なのは、自分の意思で決定できない人間や、流される人間が一定数出てくるという現実です。

「打つかどうか迷ってだけど、会社が打てって言うから打つことにしたわー」
と、言ったその人は接種後、重篤な副反応で苦しむことになり
「こんなことになるなら打たなければよかった」と後悔することになったのだった。

こんな人が増えかねません。

これは私の価値観ですが、
自分の意思で打って副反応で死ぬよりも、
打たないと決めて発症後死ぬよりも、
不本意で打たされて、被害を被ることの方が耐えられません。

今現在、打ちたくても打てなくて、発症して苦しんでいる人は、相当悔しい思いをしているだろうなぁと思います。


話を戻します。

自分で決めたことに対して、どんなことが起きてもそれは自分の責任と思えるような強い意思を持つことが大事です。特によくわかっていない新種のワクチンなのですから。
何かあった時に他人を責めることは簡単ですが、そこには何の救いもありません。

自分で決めれば後悔せずにすむ

後悔は誰しもしたくないとは思います。でも、今回のワクチンに関しては、後悔になるかもという不安が付きまといます。その不安がいつ解消されるかわからないのもストレスでしょう。
(このストレスを和らげるために、共感できる仲間を増やすためにワクチンを強く推奨する人がいるのも理解できます。)


自分で決めることのもうひとつの利点が、「後悔」でなく「反省」にできることです。

自分の意思決定が間違っていた→理由の決定に問題があったのか、目線に問題があったのか。いやいや、あの時点ではこの判断は妥当だった→なら、今こうなったのはしょうがない。

という論理展開がしやすくなります。これは後悔でなく反省です。この論理を誰かに理解してもらう必要はありません。自分さえ納得させられれば、それでいいのです。


最後に

政府が商業施設や飲食店などでの接種済証明書の利用を検討しています。

これは、まだ打つかどうか決めかねている人に対して、大きな理由となることでしょう。

「証明書を持っていないと参加できないイベントや施設があるから、打つ」ではなく、
「証明書を持っていないと参加できないイベントや施設を自分が利用したいから、打つ」という、自分の理由にすることを忘れないようにしてほしいです。


災禍の早期終息を願うとともに、多くの人が後悔なく過ごせますように。

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