DaiGo問題から価値観を考える

私は彼の価値観を認める。彼を批判する人の価値観もまた認める。そして何より、どんな価値観をも認める価値観を持った自分自身を認める。

残念だ。というのがこの問題を目にした時の感想だ。より正確には、問題として取り扱った世の中に対して残念に思ったのだ。世の中というのは本当に悲しくなるくらい冷酷だ。だが私はその世の中を愛している。愛しているから、苦悩するし、残念なのだ。

結論を先にのべると、この問題を問題として捉えて批判した側に問題があって、彼がこの問題の発端となる発言をしたこと自体には何の問題もない。彼の思想を危険だとか評する方がよっぽど問題である。つまり、全て受け取る側にしか問題の出発点はないのだ。

「いや、そう受け取れるような発言をする方が悪い(から自分の行動は正当だ)」とか言う方もいるだろう。その価値観自体は私は認めるが、残念ながら賛同できない。

例えば私は、この文章(私の価値観)にアナタが賛同できない(私の価値観とは相容れないアナタの価値観な)ので、アナタに殺される(実際の行動)としよう。私は、私を殺そうとするアナタの価値観を認める。ただ、実際に殺したアナタに(法律や社会通念上の)問題があるのは理解できるだろうか。


本質を語れば、彼を批判するという思想は彼の思想のそれと何一つ変わらない。なのに、そのことを理解していないまま実際に批判をしたり、“正義“を振りかざして無遠慮に斬りかかる行動こそが問題なのだ。

これを理解している人は、コメントを求められたとしても、何も言わないか

「影響力のある人がこういった発言をするのは議論をよびそうですね」程度で、自身の意見を述べることはしないはずだ。述べられるはずがないのである。自分がその冷酷で悲しみに満ちた世界に与したくないからだ。

冒頭にも述べたが、私は彼の価値観も彼を批判する人の価値観も認める。そこには違いはあるが優劣はない。彼に対して攻撃的な批判(一方通行な発言)をするのではなく、彼の価値観を認め、対話でもって別の価値観を共有することが、私が思う最適な対応方法である。


この文章を構想している途中で、彼は2度目の謝罪をした。

私は落胆した。

彼に自分の価値観を貫いて欲しかったのではない。彼が他者の価値観に触れて、自分の価値観をアップデートしたのならそれは認める。私は価値観のアップデート(アップグレードではない。)こそ生きる意味という価値観だから、このことは素直に素晴らしいと思う。

ただ、世の中的には“正義“を彼に叩き付けた行動によって、“悪“を屈服させた。という構図になってしまう。そしてこれが正しいことだという流れができてしまう。また一歩、私の理想とする世界から現実が遠のいたのだ。

人間社会には、価値観の相違によって発生する諸問題のセーフティネットたる法律や、人間が人間を営む上での最低限の価値観の共有が出来ているのだから、もっと自由にもっと活発に多くの価値観を共有していけるはずなのに。なのに、世界は悲しみで満ちていて、だからこそ愛おしい。


まぁでもわかっている。

私の価値観と近いところまで共有できる人が圧倒的に少ないということは。さらに、私の価値観を共有できる人は、我々の価値観こそが優れている!とは絶対に思わない価値観だから、表立って世に訴えかける人はいないということも。

だからこそ私は、こうやって細々とでもアウトプットしている。

世界が少しでも優しいものになりますように。そして、私に近い価値観をもった誰かに、それは間違っていないよと伝えるために。

私はアナタを認めます。アナタを認める私を私は認めます。

アナタは私を認めますか?  私を認めるアナタをアナタは認めますか?

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