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数学的思考で「やらない善よりやる偽善」を考える

私が聞くたびに心にモヤッとしたものを感じてしまう「やらない善よりやる偽善」または「為さぬ善より為す偽善」という言葉。

言っている人は、なんとなくかっこよく感じるのだが、この言葉って実際にはどういう意味なのだろうか。善ってなんだ。偽善ってなんだ。

このモヤッと感の原因を知りたいことと、本当にそのマインドセットで人生を歩むべきかという疑問について自分なりに整理しようと思い至った。

今回は挑戦的に、数学的思考と呼ばれる思考方法で考察していこうと思う。これは、物事を数学っぽく考えるということだ。具体的にどんなことかは記事を読み進めてもらいたいと思う。最初に断っておくと、私は数学は”苦手”だ。

さて、私にもこれがどんな結末になるかは分からない。挑戦とは未知の道を行くことで、そこにワクワク感はつきものなのだ。

考察開始

まず善の定義であるが、今この時点では「肯定的評価が与えられる意思や、それをもとにした実際の行為のこと」を善とする。また、善悪は表裏一体のものとみなすので、善の裏が悪である。

この程度の認識でも考察を始められるのが数学的思考の利点といえる。何故ならば、言葉を記号と捉えるからだ。

さて、「やらない善よりやる偽善」というのは、一般論として「善と偽善では善の方がよい」とされているから成立する言葉だ。

つまり 善>偽善 が真理としてある前提の話となる。

理解しやすいように、「善」という単語を変数として捉えよう。更にわかりやすいように1メートルと置き換えよう。この場合において「偽」という接頭語を「善>偽善」が成り立つ範囲のセンチ(100分の1)と置き換えてみよう。

善=1メートル(100センチ)
偽善=1センチメートル(1センチ)

こうすることで、真理としての善と偽善の不等式が、数学的思考上でも成り立つ。

善>偽善 とは
100センチメートル>1センチメートル
である。この不等式は真だ。

しかし、ここに「やる」「やらない」の要素を入れると不等式が反転するというのが「やらない善よりやる偽善」という言葉の意味であるから、

「やる」「やらない」という変数が関わることにより、

善<偽善 という不等式になると言っている。

では、この不等式が成り立つように、善と偽善にこの変数を加えた不等式にしてみよう。

やる善>やる偽善>やらない善≧やらない偽善

となる。

これが、「やらない善よりやる偽善」という言葉を使う人の考え方だろう。

「やる」か「やらない」かは、単純に実際の行動があるか無いかで語れるので、1か0だ。
(厳密には「やる」は「善>偽善」の真理を超えない数かつ、正の数でないといけないため、今回の場合は「0<「やる」<100」の範囲となるが、この考察ではその点は関係ないので計算しやすいよう「1」にしている。)

つまり、「やる」=1 「やらない」=0
ここに、善は1メートル(100センチメートル)というのと合わせて考えると、

やる善=1×100センチ=100センチ
やる偽善=1×1センチ=1センチ
やらない善=0×100センチ=0センチ
やらない偽善=0×1センチ=0センチ

100センチやる善1センチやる偽善0≧0やらない善とやらない偽善

先程の不等式と一致している。

この関係でいえば、「やらない善よりやる偽善」は正しく感じられる。


では、その裏にあたる悪の概念はどうだろうか。善悪は表裏一体という仮定であり、行動をしないという0という概念も存在するため、善が正の数であれば悪は負の数と捉えることができる。悪は起きないほうがいいというのも肯けるだろうから、何も生じない0よりも価値が低いと捉える。

悪=マイナス1メートル
(マイナス100センチメートル)
偽悪=マイナス1センチメートル
(偽悪という単語でなく、偽という接頭語がついた悪だと解釈してほしい。そうすれば意味を考える必要がない。)

つまり、-100cm偽悪-1cm となる。

ここに、「やる」「やらない」を組み合わせると、

やる悪<やる偽悪<やらない悪≦やらない偽悪

となり、

やる悪=1×マイナス1メートル=マイナス100センチ
やる偽悪=1×マイナス1センチ=マイナス1センチ
やらない悪=0×マイナス1メートル=0
やらない偽悪=0×マイナス1センチ=0

ー100センチやる悪ー1センチやる偽悪0≦0やらない悪とやらない偽悪

悪の場合の不等式も成り立つ。

ここで、善と悪の不等式に共通の0が登場するので、一つの不等式にすることができる。

やる悪-100cmやる偽悪-1cm<0<やる偽善+1cmやる善+100cm

0にはやらない善/悪などが入る。

以上のことから、

「やらない善よりやる偽善(のほうが価値が高い)」(やらない善=「0」<やる偽善)が成り立つ時、
その裏にあたる「やらない悪よりやる偽悪(のほうが価値が低い)」(やらない悪=「0」>やる偽悪)も成り立つ。

やる悪とやる善とやらない偽善とやらない偽悪は今回の考察には不要なので、削除すると

やる偽悪<やらない悪・やらない善   「0」   <やる偽善

となる。

やはり「やらない善よりやる偽善」は正しく感じられる。

しかし、ここで示したのはあくまでも「やらない」というのが「0」(あるいは無)であり、そうした時の偽善と偽悪という言葉の立ち位置がどこにあるかということを明らかにしたに過ぎない。

y軸
↑ 善の領域
|  
0<-------偽善------- x軸 
    偽悪
↓ 悪の領域

これは、座標を簡易的に示したもの。「<」は不等式でなく直線の意味。x軸が何を表すかは後述する。x軸の0より↑が善の領域で、↓が悪の領域である。

やらない=「0」座標(0,0)から、
偽善も偽悪も同距離離れているが正負のみ違う
偽善は(x,y)なら
偽悪は(x,−y)ということである。

以上で、数学的思考による考察を一度止めて、次は「偽善」という言葉の意味をおさえていこう。

「偽善」の意味

偽善とは何かを考える。なお、偽悪という言葉はあくまで偽善の裏にあたる記号として利用していたので、ここでは偽悪の意味は考えない。

偽善の定義の説明に入るが、同じようなことを違う言い回しをして何度も言ったりしている。この部分の整理は重要なので、じっくり読み進めて頂きたい。

偽善とは、見せかけの善を行うこと。つまり、自分は善いことを行っていると見せかけたいということ。なぜ、善いことを行っていると見せかけたいかと言うと、それにより自分の評価などが上がることを予測・期待しているからである。そして、その意思があること、あるいは他者から見てその意思があるように感じられた場合に、その行為を偽善と呼ぶ。

つまり、善を行うという時に、単純に善を行いたいという意思以外にも理由があり、なおかつそれが強い(または強く感じられる)場合のことを偽善としている。

偽善による行為が他者によって善であると認識されることを期待しているということは、どういうことが善であるかという本質は理解している。よって、他者に善と認識される行いをもってして、(他の理由を隠したまま)善を行う者と評価されたい、という意思を持った状態で起こす行為は、それ即ち善である。つまり、行為者が行うのは全て善であり、行為を為すその時までに偽善という概念は発生しない。
「どうせ、私のやることは全て偽善さ」
などの自嘲は、行為を為した後の評価に注目しているに過ぎず、その意思や行為は善からくるものだ。主観においての偽善はこういうケースにしか存在しないが、そこに意味はない。


行為後の善悪や偽善かどうかの評価は、評価者の視点や立場によって変わり、結果の範囲をどこまでに設定するかでも変わってくる。

例えば、著名人が募金への協力を募った際に、売名行為による偽善だのと批判を浴びることがあるが、

①「募金協力を募る」のは、善である。
②その隠された目的として「売名」があり、
 「売名」を目的として「募金協力を募る」
③「売名」を目的として行おうとしている「他者に善を行っていると認識される」行為は、実行していない段階では無であるが、行われる行為は善によるもの。
④「売名」を目的として”行った”「募金協力を募る」行為は偽善と呼ばれた。
⑤数年後、この募金先の団体が実は反社会的組織でその資金を元にテロ行為が発生した。これに関わった者は悪と糾弾された。

こういった段階に分けることができる。

①から③までは、自分から②を告知しない限りは自己評価しかなく、他者から偽善だのと言われることはない。
④の段階で初めて他者の評価にふれることで、その他者の価値観によって偽善と呼ばれる可能性がある。

しかし、この感覚をもってして偽善を定義することはできない。突き詰めるとこの感覚は、個人の価値観が関わる以上、あらゆる行動を偽善と言うことが可能になってしまうからだ。

そして⑤の段階のようにずっと後から評価が変わることもあるのだ。

次に、悪を働く観点からの例も挙げよう。
金持ちから金品を奪い、それを貧しい人に渡す義賊がいた。

①金持ちの家から金品を「盗む」ことは、悪である。
②「貧しい人にくばる」を目的として「盗む」
③「貧しい人にくばる」を目的として「他者に悪と行っていると認識される」行為は、実行していない段階では無であるが、行われる行為は悪によるもの。
④「貧しい人にくばる」を目的とした“行った“「盗む」行為を善と捉える民衆もいた。

このように、為された行為についての善悪あるいは偽善などの判断は個人やその時々の社会の価値観によるところが大きく、その評価を妥当だと決定付けるものはない。

数学的思考に偽善の意味を加える

これまでの通り、善と偽善の評価の差は、評価する人や状況によっても変動するものであり、明確な違いを定義付けることは不可能であることがわかった。悪と偽悪の関係も善悪が表裏一体である以上同様であるといえる。(悪と偽悪の評価の差は変動し、何をもってして偽悪とするかは定義できない)。

言葉の意味を探ったことにより、善と偽善にどのような差があるかを決めることはできないが、同じ方向性にあることは分かった。そこで、行為の評価が善か悪のどちらの領域の評価になるかという点について考えてみる。

ここで再びこちらを思い出してもらいたい。

y軸
↑ 善の領域
|  
0<-------偽善------- x軸 
    偽悪
↓ 悪の領域

数学的思考上では、偽善と偽悪はプラスかマイナスか、善の領域か悪の領域かの違いしか無い。x軸とは行為の評価が出るまでの時間経過と認識してもらいたい。この座標の簡易図は視覚的にも行為の評価が分岐することを示すために利用しているのだ。
(厳密には、評価がなされるその時まではy軸の値は「0」で、評価がされた瞬間に正負のどちらかの座標を取るのだが、「<」の形で考えた方が次の文は理解しやすい)

x軸(時間経過)は変化しないので一定だが、 y軸にマイナスをかけることで、行為の評価が偽善から偽悪に、偽悪から偽善へと変わってしまう。この数学的な性質を利用して、行為の評価が善悪どちらの領域になるかを考えればよいわけだ。

重要なのは、そのマイナスをかけるという要素は何によって発生するかだ。これは、その行為や行為の結果を否定するなどの、行為者の意図した結果の裏目に出ることと定義付けできる。

ある意思決定を行う際に、その意思決定による行為の結果がどういう方向に進むかを考えないということは無いだろう。ところが、自身が善いと感じて選択した行為の結果が、人や場合によって善いことにも悪いことにもなるという事はある。

よく例に上がるのが被災地へ千羽鶴を送るといった行為だ。これは善なる意思を持ってして行った行為(善or偽善)が、結果として邪魔になってしまった(マイナスをかける要素になった)ために、何もしないという「0」よりも悪い(悪or偽悪)という評価になってしまっている。

しかしながら、この千羽鶴で勇気をもらえる人がいる可能性も捨てきれない。その人にとっては、これは善いことと言える。逆に、明確な悪意をもって千羽鶴を送っても、千羽鶴を喜ぶ人がいれば、それは善いことという評価になるのだ。

つまり、善にしろ悪にしろ、それを評価できるのは行為が為された後にしかできない。そして、それは行為者がコントロールできることではない。

そのため、「やる」だの「やらない」だのの行為前に偽善かどうかを考えるのは、行為者の内界においてのみ有益なことで、実際に行動に移す段階で考慮することではない。

まとめ

では、我々はどういった行動をしていけばよいのか。

倫理上悪を働くのはおすすめしないので、推奨されるマインドセットとしては、

やる善、つまり、

これをしたら、ひょっとしたら善い結果になるんじゃないか、ということだけをしていけば、それは最低でも無であり、善につながる(可能性が高い)。

同様にやる悪、つまり、

これをしたら、ひょっとしたら悪い結果になるんじゃないか、ということをしていかなければ、それは、最低でも無であり、悪につながる(可能性は低い)。

どちらの場合も、そのひょっとしたらが正負の逆方向になってしまう可能性はある。社会常識や経験からその可能性を押し下げることは可能だが、それを完全に予測・制御することはできない。

だからこそ我々は、悪になるようなことを慎みつつ、ただひたすらに善となるようなことを為して行こうという心持ちでいればよい。その基準は自分の倫理に従えば良い。ただし、それは他者やその状況によっては偽善などの評価を与えられることもあるが、それは防ぎようのない事なのだから、それは受け入れていくしかない。

逆に、アナタに対して偽善とも悪ともとれる行為があったとしても、それをそのまま受け止めずに、相手の行動の意思や動機を探り、そこを評価する姿勢でいたほうがアナタにとって有益だ。


今回の考察から得た知見は、何もしないことは無に等しく、何かをするということは、その意思や動機がどうあれ如何様いかようにも評価されてしまうということだ。

その評価にさいなまれるのであれば、何も行動しないこともまた、選択肢としてはある。ただ、毎回その選択肢があるわけでもないし、行動しないことこそが悪と認識されるケースもある。そういった際には、自身が善しと言えることをしていけばよい。そこに偽善などは存在しない。むしろ、偽善者などと呼ばれることは、自分の行動が善行であることを確信するに足ることだ。誇っていい。


よって、「やらない善よりやる偽善」とは、善にも偽善にも偽悪にも悪にもなり得るものを、結果論的に偽善と称して、無価値のものよりも価値のあるものとしている。あるいは、無価値の善よりも、結果的に偽善とそしられようが、行動に移したほうが価値があるという正当化を促し、実際に行動を起こすための後押しとなるものと捉えてもよい。

「やらない善」とは「無」と言い換えられる。また、偽善は行為が為されるまでは存在しない概念であるから「やる偽善」という言葉は本来は存在し得ない。「やった偽善」または「やる善」と表現するのが正しい。

「やった偽善」とは「やる善」を実際の行為と為した後に、誰かしらに偽善と評価された状態である。

「やらない善よりやる偽善」を言い換えると

「無よりもやった偽善(と評価された行為)」となる。

これを数学的思考で導いた不等式と合わせると、

0<偽善 となり、真偽は一致する。

以上のことから、
「やらない善よりやる偽善」という言葉そのものは「やる偽善」という状況が存在し得ないゆえに成立しない言葉であるが、その意味するところは推察可能な言葉である。その意味とは「(もっぱら善行をしようと考える際に)何もしないよりは、自分が善いと思った行動であれば、どんな評価が与えられるかを気にすることなく行動せよ」というもので、これについては共感する要素が充分にあるため、世間に広く認知されている言葉となったと結論づける。

私の感じていたモヤッと感は「やる偽善」が存在し得ない言葉という観念による所が大きかったのだろう。そうはいっても、この言葉の意味するところには共感できるため、私はこの言葉を肯定する。人生を歩む上でのマインドセットとしても“悪く“ない。

以上をもって、「やらない善よりやる偽善」の考察を終える。

* * *

今回は企画に沿って #数学がすき  タグで記事を書いた。

冒頭でも述べたが、私は学業における数学は苦手だ。赤点スレスレの学生生活であった。しかし、数学的な物の考え方は実生活において役に立っている。ような気はする。

今回の考察においても、数学的に正しい記述であるかなどは考慮していないし、しなくてもよいと考えている。あくまでも「善」や「偽善」という言葉を考察する上で、自身が整理しやすいように道具として利用したに過ぎない。私にとって数学とは道具なのだ。

“哲学は、われわれの眼にたえず示されているこの宇宙という大きな書物の中に書かれている。しかし、この書物は、その言語を理解しその文字を読むことをまず学ばなければ理解できない。それは数学の言語で書かれており、その文字は三角形、円、その他の幾何学的図形であって、これを知らずには一語も理解できないのである。”      ガリレオ・ガリレイ

そう、数学的に誤りがあろうとも、私の求めていた答えにはたどり着いたのだ。
哲学的にはこれが正解といえる。

よって私は #哲学がすき  である。
Q.E.D.

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