差別と区別は区別できない

私たちが差別問題とどう付き合っていくかを自分なりに考えて、似たような考えを持つ少数派の人たちの参考になればという思いで書き連ねる。

差別はなくならない。そう考える根拠は、抽象度の違いを認識したコミュニケーションを上手にとることが、能力的にも物理的にも出来ない人が多いためだと私は考えている。


世界中で差別と呼ばれるものが存在しており、そして世界中の人がそれはいけないことで、無くしていかなくてはいけないことだと言っている。

差別とはいったいなんなのだろうか。

私は昔から、この差別というものが理解できなかった。

差別という言葉の意味するところ

自分の責任でないところで不利益な取り扱いを受けること。これが差別の定義で、それ自体の意味は理解できるのだが、それが絶対的にいけないとする価値観には賛同しかねるのだ。

イメージしやすい人種差別で考えてみる。

結論から言うと、犬と猫どちらが好きですか? と同じなのだ。犬も猫も望んでその種に産まれてきたわけではない。しかし、人間は身勝手にどちらをより好むかを日常的に話していて、それを差別と指摘する人はいない。これは仕方ないだろう、対象が人でないからだ。

では、人に置き換えて考えよう。

AさんとBさんではどちらが好きですか? という質問は許されているだろう。これは好みという価値観による意思決定を行うことを世間的に認められているからであろう。

では、黒人と白人ではどちらが好きですか? これは、許されないとされている。

つまり、個人という最小単位で判断せずに、その上位構造の人種という部分で不利益な意思決定を行うことは認められていないから、これを差別と呼んでいるわけだ。差別の定義として、相手への無理解からくる区別が差別だとする考えもある。これは、個人を理解する前に上位構造で判断してしまうことからくるものだろう。言っていることはわかるが、私としては、分かり合える可能性を放棄していて「もったいない」とは思うが「いけないこと」とは思わない。(攻撃的な言動をすることはまた別問題であるため言及しない。)

では差別的な取り扱いをしないために個人にフォーカスをあてて理解して、正しく区別を行って行けば差別にはならないか?

正しく区別とはなんだろうか。その正しさを判定したのは誰でその正しさを担保するのは何で、被区別者もその正しさを認めているのだろうか。また別の差別の定義には、差別されていると感じたらそれは差別だというものもある。つまり、正しさをどこまでも追及したとしても、対象との認識のずれがあれば、それは差別になりえるということだ。

認識や価値観を完璧に同一にすることなど不可能だ。認識や価値観のズレがわかっても、今度はそれを好むか好まざるかというものも関わってきて、その点に関しては誰も否定することはできない。だから、最終的に当人に責任のないところで、不利益な取り扱いをすることもまた、認められなくてはいけないと私は考えている。私の中では、これは差別でなく区別という認識だ。

私の持論はひとまずおいておき、世の中の多くの方が直面するであろう差別の発生要因としては、上位構造などの抽象度を統一できていないため、今どの目線で語っているかを共有できず、これにより理解が得られなかったり誤解を与えてしまっているからだ。

抽象度の違いによるすれ違い

こういったケースで考えてみよう。

私は動物が好きです。
哺乳類が好きです。
犬と猫では猫が好きです。
でも犬のなかでブルドッグは好きです。
でもでももっと好きなのは
実家で飼っているチワワのミィちゃんです。

「動物」という最上位構造があり、次に「哺乳類」というくくりがあり、そのなかに含まれる「犬」「猫」が次にくる。そして犬種の「ブルドッグ」「チワワ」ときて、特定の個体「ミィちゃん」が最小単位である。

この文章のように、全てを語れていれば誤解はないだろうが、現実のコミュニケーションでここまで順を追って語ることはないだろう。
まして「犬と猫どちらが好きですか?」と聞かれた場合、「猫です」と答えてしまう。そうすると質問してきた側は本当は犬の話をしたかったのかもしれないが、その先の内容は気づきようもないので、そこでコミュニケーションが途絶えてしまう。これが「もったいない」という感覚だ。

同じ内容を会話形式で展開した次のケース、

「私は動物が好きです」
『じゃあ、ゴキブリが好きなんですね』
「いえ、ゴキブリは苦手です」
『節足動物は動物じゃないというのですか、それって差別ですよね』
「そういうつもりはなくて、すみません。認識不足でした。ゴキブリも動物ですね。でも私は、そう哺乳類が好きでして・・・」
『そういうことでしたか、言いすぎました。こちらこそ申し訳ない。哺乳類ですか、私は哺乳類嫌いなんですよ、コウモリがいるので』
「え、コウモリですか。そうですね、コウモリも哺乳類でしたね。でもほら、犬とか猫とか、人間も哺乳類じゃないですか」
『コウモリがいるから、哺乳類全体がきらいなんです。だってあいつら、黒くて飛んで来てしかも病気を持ってるんですよ』
「それなら蚊も嫌いなんですか? 黒くて飛んで来て病気も持ってます」
『いえ、蚊は好きです。昆虫全般好きですから』
「あー、そうなんですね」
『あ、でもよく考えると、鳥類は基本平気な部類で、スズメなんかは全然問題ないんですがツバメが苦手な気がしますので、黒くて素早く飛んでくるものが苦手という感覚はあっているかもしれません』
「新発見ですね。ところで、この写真の犬は実家で飼っているミィちゃんです。可愛いでしょう」
『そう、ですね』
「これは、チワワという犬種で犬にはたくさんの種類があって、それら全てをひっくるめて私は哺乳類がすきなのですが、知識不足による偏りがあるかもしれないので、よければアナタが哺乳類を嫌いだと思っていた根拠をもっと教えてくれませんか」
『いいでしょう、それでは一緒に図鑑を見ましょう。そもそも哺乳類という表現は・・』

こんなまどろっこしい会話があったとして、最初は知識不足や動物の分類にあたる抽象度がバラバラだったが、会話を進めることでその目線を合わせることができている。これを行っていくことでようやく区別は差別にはなならない。

だが、現実的にこんなことは全ての人とできるわけがない。というよりも、こんな個別具体な会話をしなくて済むように分類を分けたり、抽象的に会話を展開できるよう言葉をつくってきたわけなのだから。本末転倒、多様性の弊害。

結局のところ、当事者同士の対話でしか差別を解消することはできない。外野がいくら騒いでも無駄なのだ。この動物の話は、差別対象が対話の当事者間ではないから比較的成立するが、対話の当事者間で差別やそのタネが発生している場合、解消できるまで対話を成立させることは困難なことも多い。

差別をしているとされる側と差別を受けているとされる側の双方がこのすれ違いを解消する意思を持っていないといけない。が、現実には難しいのだろう。そういえば、最近も車椅子ユーザーと鉄道会社で一悶着あって話題になったなぁと思い出した。あれもこの双方という部分が欠落していたから起きたんだろうと思う。

私の価値観では

今まで私は差別を受けたことがないし、今後も受けることはない。正確には、私が差別と認識することはない。というだけであるが、先日ニュースになっていたフランスのサッカー選手の件で説明しよう。

彼らが日本人を対象に、侮辱的な表現をした。フランス人やフランス文化に詳しい人ならその意味するところがすぐに分かり、差別的でよくないと評した。日本人の私はというと「そういう風に考えて、そんな表現をする人もいるんだな」で終わりだ。コミュニケーションがそこで終わってしまうことに対して残念に思うものの、差別を受けた気持ちにはならない。彼らと私の2者間であれば問題はおきなかった。仮に日本人全員が私とおなじ価値観であったとしたら、フランスと日本という国同士でも問題はなかった(という仮定ですすめる)。しかし、国際的にはやはり問題になっただろう。グローバルな現代は関係する場所が多すぎて、対話による解決などは不可能なのだ。

だから差別はなくならない。

差別をなくそうというその気持ちは理解できるし、その理想に対しての行動それ自体は大事なことではあるが、何をどうしても差別は無くならないと信じている人に対して「差別を無くそうとしない人」というレッテルをはって差別するのはよしてほしい。私だって、世界平和を願っている。そこを無理解のまま区別しないでくれ。

差別を排除しようとする者こそ本当の差別主義者だという考えもあり、これも共感できる主張だと私は思う。

最後に

もしアナタが差別はよくない!という主張をする外野なのであれば、その思いは胸のうちにしまっておくか、逆に大きく声を挙げて改革を推し進めるか、どちらかはっきりした方がよいだろう。中途半端でいるとそれは差別になるかもしれない。

差別する側に属していそうなアナタは、相手を理解しようとするスタンスであらゆることにのぞむ気持ちを持つことをオススメする。相手がどうこうではなく、単純にアナタにとってその価値観は「もったいない」から。

今まさに差別を受けているアナタは、受け入れるも逃げるも反発するも自由だ。だけど、自分から行動しなくては何も変わらない事だけは覚えていて欲しい。自分に責任のないことなら考えても無駄なことで、アナタに出来ることはアナタの道を歩くことだけなのだから。

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