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歴史小説からの学び―司馬遼太郎『坂の上の雲』―

先日から司馬遼太郎『坂の上の雲』を読み始めた。

昨年、松山へ行った時に坂の上の雲ミュージアムへ行ったのが、読むきっかけとなった。元々は安藤忠雄設計の建物、特に空中階段を見ることが目的であった。しかし、展示を見ているうちに実際に読んでみたくなったのだ。

人生で初めて読む歴史小説である。歴史小説を読んだことがないので、比較できないのだが、この小説は今まで読んだ小説とは大きく異なる印象を受ける。とかく脱線が多いのだ。登場人物の紹介や歴史的背景、さらには司馬自身が『坂の上の雲』を書くにあたって調べ上げた時のエピソードまでが本文に含まれている。司馬の歴史研究の成果にセリフを肉づけしたかのような、不思議な小説だ。

さて、この坂の上の雲は、松山出身の3人(秋山好古・真之兄弟、正岡子規)を中心に据え、そこから明治社会、ひいては日露戦争を巡る物語である。全8冊あり、まだ2冊目を読み終えたところである。日露戦争まではまだまだ遠い。

小説を読み終えていないので、読み終えたときにどのような印象を抱くかはわからない。しかし、現時点でもかなり印象的な小説の1つになっている。考えさせられる一節が多いのだ。印象的な箇所を引用しよう。真之と正岡子規(升サン)との会話から、真之のセリフである。

「升サンは、俳句と短歌というものの既成概念をひっくりかえそうとしている。あしも、それを考えている」
(中略)
「たとえば軍艦というものはいちど遠洋航海に出て帰ってくると、船底にかきがらがいっぱいくっついて船足がうんとおちる。人間もおなじで、経験は必要じゃが、経験によってふえる智恵とおなじ分量だけのかきがらが頭につく。智恵だけ採ってかきがらを捨てるということは人間にとって大切なことじゃが、老人になればなるほどこれができぬ」
(中略)
「人間だけではない。国も古びる、海軍も古びる。かきがらだらけになる。日本の海軍は列強の海軍とくらべると、お話にならぬほどに若いが、それでも建設されて三十年であり、その間、近代戦を一度経験し、その大経験のおかげで智恵もついたが、しかしかきがらもついた」

司馬遼太郎『坂の上の雲(二)』 P.324-325

ここでいう「かきがら」を落とす行為は、最近のバズワードを使えば「アンラーン」に該当する。確かにこのセリフの通り、経験は大切だ。しかし、経験が仇になることも多い。特に、成功体験はその後の失敗につながりやすい。「失われて30年」にもこの要素がある。単なる小説内のセリフとしてではなく、現代社会を生きる1人として、このセリフは身につまされる。

個人、組織、国(社会)、どのようなレイヤーで見ても、経験は大切である。しかし、経験はもれなく、余分な「かきがら」をその身にまとわせる。経験がもたらしてくれる果実は「甘み」から「苦み」へと次第に変わってしまう。おいしい果実を安定的に得られるようにするには、適宜「かきがら」を落とすことを忘れてはならない。それを改めて考えさせられる一節だ。

残り6冊。先は長いが、気づきや発見、そして大切なことを改めて思い出させてくれる一節が各所にちりばめられている。小説としてだけではなく、自らの生き方を改めて考える本として読んでみるのも良い。そういう本が『坂の上の雲』という本なのだろう。
注)「史実」のように書かれている部分も多くあるが、この本はあくまでも小説に過ぎない。いったん「創作」として読み、史実については、専門資料を調べることをお勧めする。


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