より健やかな社会であること
社会に問題が多すぎる。
「努力が報われる社会を実現したい」
そんな小学生からの夢を叶えたいと飛び込んだのは僕の周りで努力が報われていない!と感じた縫製業だった。
おかん2人と子供が4人
小学1年の時に両親が離婚し母子家庭になった。
縫製工場を経営する母には妹がおり、妹もまた母子家庭であった。
互いに姉、弟の二人兄弟であったこともあり二世帯住宅を始めた。
小学2年生の時、おかん2人子供4人生活は始まった。
家族構成は
おかん(本物)
おかん(叔母)
長女(本物)
次女(従姉妹)
兄(従兄弟)
次男(僕)
ナナ(シーズー犬)
の6人と1匹である。
おかん二人は縫製職人、長女(実の姉)も4歳からミシンを踏んでいた。
おかんの工場と服とハム
僕たちの生活はといえば朝食を取ったらすぐに母たちは仕事にいき、子供たちだけで準備を済ませて登校する。
家の合鍵を持たせてもらっているのは一番なくす可能性の低い長女と次女であり、僕や兄は鍵を持たせてもらっていなかった。
だから自分が学校が終わると自宅から子供の足で徒歩20分くらいのところにある母の工場へ行って仕事が終わるのを待つか、鍵を借りて家に入るかのどちらかだった。
僕はまだ小さかったし母のことが好きだったから学校が終わるとすぐに母の工場に向かった。
母の経営する縫製工場は20名くらいで構成されていてプレタポルテ(高級婦人服)を下請けで縫っていた。
たまに百貨店なんかに連れて行かれると「この店の洋服はうちで縫ってるんやで」なんて言われてたがなんて店だったのか、どんな洋服だったのかはあまり覚えていない。
実際、僕が生まれた1990年はバブルが弾けるまさにその時で、母の会社の経営状態は最悪だったと想像できる。
縫製が海外にどんどんと流れていってバッタバタと縫製工場が潰れていた、母の会社ももちろんその煽りを受けていた。
高級婦人服!
なんていうけれど実際経営者であり縫製職人であり、営業である母が取ってくる仕事は本当に「生きるため」の仕事であった。母の工場に限らず日本中の下請け工場はそうであったと思う。
ある日おかんの工場に行くとみんながメッシュを縫っていた。
幼い僕から見ても「服ではない」とわかるメッシュ。
「これなんなん?」とおかんに聞くと「ハムや」と答えられた。
「ハム?」と当然の質問を投げると「お歳暮とかである高級なハムあるやろ、あれを包むメッシュやねん」と言われた。
おかん、いつからうちはハム屋さんになったんや。と思いながら数を数えて袋に詰めるお手伝いをしていたのを覚えている。
とにかくその当時(今から20年くらい前)の日本の縫製工場はとにかく生きていくのがやっとで、やれることはなんでもやる。そんな空気感だった。
子供達のルーティンと洗濯を畳む3年生
僕たちの生活は学校から帰ってくるとあらかじめ分担されている家事に取り掛かる。
姉たちは洗濯物を取り込んだり掃除をしたりしていたし僕は風呂掃除や犬の散歩などだった。
母の「食べるものだけが愛情の証」というモットーの下、晩御飯だけはオカンが作ってくれるという決まり事があった。
逆にいうと朝から晩まで「晩御飯を作る」という時間以外はおかんはほとんど家にいなかった。
(好物はベタにおかんの肉じゃがと、赤ウィンナーのホットドッグ)
早朝から仕事に行き、晩御飯を作る時だけ帰ってきて自分たちは食べずにまた仕事に向かっていき子供達が寝静まった後に帰ってきて着替えて、そこから夜の仕事?に行って生活を成り立たせる。そんな生活だった。
小3のある日、夜11時くらいに目覚めた。
起きてくるとおかんたちはまだいなかった。
リビングに降りてくるとそこには畳まれていない洗濯物があった。
普段は洗濯物は畳んでいるのだけれどその日は子供同士で喧嘩したのか、忙しかったのかわからないけど洗濯物が畳まれずに置いてあった。
それを見た時に「この洗濯物、多分オカン等が帰ってから畳むんやろうなぁ」と思ったのだ、そしてすぐに正座して洗濯物を畳んだ。
洗濯物を畳むぐらいなんてことない、けれどなぜか僕はその時泣いていた。
朝から晩まで仕事して、やりたくない、誇らしくもないハムの仕事なんかして、
それでやっと従業員さんの給与稼いで、子供達を生かせるために自分たちは身体に鞭うって深夜まで働いて。
なんやこの生活。
誰が悪いんや。
そんなことを思ったんだと思う。
なぜだかわからないが幼心にその時強く誓ったことがある、それが今の僕のビジョンとして心の中にある言葉
「努力が報われる社会を作る」
である。
努力が報われる社会を作る
僕が起業を決めた時おかんは「別に服作りじゃなくていいよ」と言った。
自分がものすごく苦労していて、家族を苦労させたと思っている業種を息子と娘が選ぶことを引け目に感じていたんだと思う。
それでも僕はこの業界で起業した、
それは幼少期にあった「頑張っても報われへん」という原体験があったからだと思う。
その原体験から僕たちはMY HOME ATELIERを作った、自分たちの努力ではどうしようもない廃業や介護など様々な理由でミシンを泣く泣く降りた職人さんたちがもう一度技術を活かして仕事ができる環境を整えたいと思ったから。
日本の職人さんの技術は宝物です。
一人、弱肉強食な授業参観
僕が小学生の時、一回だけオカンが授業参観に来てくれたことがあった。
小学校の運動会も観にきてくれなくて、当時の僕が行ってた小学校の運動会は昼食の時間は「応援に来てくれている父兄とご飯を食べましょう」っていう時間があって、僕はいるはずのないオカンを探すんだけどタイムアップ、あっけなく担任の先生に「ヒデキくんは先生と食べよな」と手を引かれていた。(×6年間)
そんなおかんが授業参観に来てくれるっていうのは本当に嬉しくて、ドキドキしていた。
算数だったかと思うが「いいところ見せる」と思って気合が入っていた、授業参観が始まって父兄が集まり始める、チラチラと後ろを見るけどおかんの姿はない。
授業が半分くらい過ぎた頃後ろを向くとそこにはオカンの姿があった、一瞬とても嬉しかったが服装を見て違和感を感じた
豹柄のインナーにゼブラ柄のスーツにピンヒール。
THE 大阪のおばちゃん(奈良やのに)
いつもそんな感じの服装だったから特に驚きはしなかったが、周りのお母様方がめちゃくちゃ清楚な格好をしていたのでうちのおかんだけ目立ち過ぎていた。
いやいや、ゼブラと豹って弱肉強食になってもうてるやん。
そんなことを思ったのを覚えている。
しかしそんなふうに思いながら僕は誇らしかった、それはそのゼブラ柄のスーツは自分で作ったものだったから。
みんなが服買ってるけど、うちのおかんは自分で作ったスーツできてる。
それがなんだか誇らしく、嬉しかった気がする。
日本の職人の技術は素晴らしい、一人で弱肉強食を作れるくらいやで。
仕組みの力でどんどん社会が健やかになる。
そんな職人さんの力を知っていたから僕たちはMY HOME ATELIERという事業をはじめて、苦しみながらもがきながらだけれど毎年1.4-5倍成長をしてきた。
今こうしている間にも全国の自宅で職人さんがミシンを動かしている。
仕組みの力で動かなかったミシンが動きはじめて、大量生産ではなく本当に求められている洋服が小ロットで作られていく。
職人さんたちからもらう言葉で一番嬉しいのが「またミシンに乗れる」
こうやって一人一人の職人さんたちと歩んできた。
そして僕たちが新くはじめているサービスがある。
新-ARATASHI-である。
ファッションはどんどん多様化していく。
マスの時代から個の時代になってきている、それだけ表現が多様化し大量生産では追いつかなくなってしまった。
これは実は地球環境としても素晴らしく、大量に作られてすぐに捨てられるのではなく個々に合わせて細分化された洋服が必要になることで無駄な廃棄を減らすことができる。
この時代の流れに乗ってファッションデザイナーたちは大手企業でのデザイナーではなくD2C化してきている。
本当に好きだと言ってくれる人に直接届けられるD2Cはデザイナーとしても顧客としても素晴らしい仕組みになっている。
しかしファッション業界のD2Cにおいては大きな壁がある、それが「作ることができない」である。
細分化されたファッションはその結果小ロット化し工場では取り扱えない量になっているのだ。
それに日本の縫製工場はここ最近でピーク時の1/5に数を減らしている、作りたくても作れない。表現したくてもできない。売りたくても売れない。
こんな悩みがファッションの領域で起こっている、それを解決するサービスが
ARATASHIである。
このプラットフォームはデザイナー自身が自分のレーベルで商品を販売することができるだけではなく、その生産も行うことができる。
例え3着しか受注がつかなかろうが、大量に売れようが、受注生産で製造まで行うことができる。
そうすることでデザイナーは売りたい商品を「作れるかどうか」ではなく適切に販売を行うことができるし、お客様はそのデザイナーの商品をいち早く購入することができる。
さらにそんなD2Cブランドだけを集めたファッションモールだから、本当にD2Cブランドが好きな人たちが集まってくる。
プラットフォームとか、ECとかD2Cとかいろんなこと言っているけど、結局は職人さんたちの力があって成立しているモデルである。
時代は変わっても変わらないもの
今僕は父になり、縫製会社の社長になり、
完全にあの頃のオカン状態である。
ベンチャー経営者らしくお金で苦心し人付き合いで苦心し、帰りの遅い日もある。
母が「この業界に来るな」と言った理由はよくわかるし、何度も辞めるタイミングはあった。
でも一度も「やめよう」と思ったことはない。
それは日本の職人の技術を信じているからであり、おかんが繋いできたバトンを僕がしっかりと次世代につながなくてはと思っているから。
(会社はついでないけど)
どんな時代になっても変わらないものがある。
それは創意工夫でなんとかなるということ。
オカンのハムのように、僕たちはいろんなことを考えて実践して時代に立ち向かう。
お客様の困りごとを聞いて解決するのだからハムのメッシュの縫製も新-ARATASHI-もあまり変わらない。
そして子供たちが僕を見ている姿も変わらない。
でも僕は子供達の心の中に何を残せるだろうか「こんな業界に行きたくない」だろうかそれとも「素晴らしい業界だ」と思ってもらえるだろうか。
僕はこの新-ARATASHI-を通じてユーザー様の自己表現を最大化させて健やかな社会を実現したい、デザイナーさんには作る自由を、表現の最大化を叶えてもらいたい。
そして職人さんたちには誰かを輝かせる洋服を自宅で作って欲しい。
縫製職人さんの人生の多くは「職人」である。
だから好きな仕事を好きな時に好きなだけしてもらえる環境を僕たちは整えていきたい。それを求めている人がたくさんいるから。
最後に!
縫製職人さんはめちゃくちゃ貴重です、時代遅れの仕事なんかじゃない!
デザイナーさんも尊くて、いつもキラキラしてかっこいい!
そしてユーザー様がその洋服を着て初めて僕たちの仕事が叶ったといことになる。
だからいっぱい着てください!
こんな僕たちと一緒に働いてくれる
生産管理、パタンナー、営業、マーケティング担当、縫製職人などなど募集しております!
お問い合わせはホームページから、
そしてデザイナーさん!大募集です!
僕たちと一緒にめちゃくちゃ素敵な洋服を作って、一緒にお届けしませんか。
こちらはぜひ下記メールアドレスにお願いします!
info@aratashifashion.com
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