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■【より道‐21】英霊の記録

浦安の実家に帰ったときに「戸籍謄本」や「お祖母ちゃんの手紙」「井出ノ谷の登記簿」など新たな資料を受け継いだが実はもう一つ資料をもらっていた。それは、父とのメールのやり取りにもあったが、見田守登さんの資料。

この写真をみた瞬間、脳裏に残っている顔が呼び起されて夜眠れなくなってしまった。見田守登さんは、自分の曾祖母の弟さんなので、もちろん自分は会ったことがない。それでも、どこか見覚えのある顔なのだ。自分のDNAが覚えていたのだろうか。不思議な体験だ。

そして、第二次世界大戦で亡くなったおじさんの記事をnoteを通じて子孫に残すということは、とても意味のあることだと思う。


見田守登 (旧性 大原)
 法名:功海院守節義登居士
 生地:日野郡日南町神福一九一四番 
 年令:明治三五年七月三〇日生 

海軍兵曹長
 ・叙勲七等青色桐葉章
 ・八等瑞宝章
 ・功六級金鵄勲章 


英霊の記録 
岡山県神郷町大原喜太郎氏の三男に出生。温厚篤実な性格であり幼少より軍人を志望。郷校卒業後、家業たる農業に従事し精励を続けた。氏、一九歳の大正九年六月一日呉海兵団に現役志願兵として入団、 憧れの海軍軍人としての第一歩を踏み出した。同一〇年四月二八日戦艦「伊勢」に乗艦、同年一二月九日には海軍潜水学校付に転属となる。同一一年五月三日に第一六潜水隊付兼第三五潜水艦に乗組、北海巡航に派遣される等の名誉に輝いた。同一三年四月一一日第一四潜水隊付兼第六二潜水艦に転属、同年五月六日呉海兵団付を拝命、同年九月六日第一一潜水隊付兼第二七潜水艦に乗組む。

 昭和一五年一月十三日新規竣工なった呂号第五一潜水艦に乗組、四年余の潜水艦勤務に精励した。同年五月七日呉海兵団付に転属、同年九月二二日第三艦隊司令部付となり戦艦「陸奥」に乗艦する。同年一〇月一五日呉海兵団付を拝命、同年一一月二四日には巡洋艦「天龍」に乗艦する。

昭和二年六月一二日呉海兵団に転属、同年一〇月一日には再び潜水艦に乗艦、第一五潜水隊付兼呂号第一五潜水艦に乗組んだ。昭和三年一一月北支漢口に派遣、漢口特別陸戦隊指揮小隊として治安維持に活躍、数々の武勲を打ち建てた。昭和五年四月一日呉海兵団付に転属、同七年一一月一〇日現役延期解止、翌一一日予備役に編入、帰郷する。

帰郷後、見田家に入籍、農業に従事する傍ら、氏の生来の性格は人々の信望厚く、在郷軍人会会長を二期、四年も相務めた。又子宝にも恵まれ、平和な生活が続いていた。昭和十五年一二月二〇日充員召集により呉海兵団に応召入団、同二八日には「東栄丸」に乗艦、ロスアンゼルス方面の遠洋航海に従事しつつあったが、昭和一六年一二月八日 大東亜戦争開戦と共に、昭和一七年一月四日呉海兵団付となり、同年二月三日呉鎮守府第三特別陸戦隊付となり、ニューギニヤ戦線に派遣となる。

昭和一七年六月ミッドウェー海戦を契機として米軍の反攻が 開始、氏も前線指揮官として奮戦するも、昭和一七年八月三一日ニューギニャで壮烈なる戦死を遂げた。二七歳の好漢であり氏の数々の戦功に対して、功六級の金勲章を拝受、盛大なる村葬を以ってその栄誉 を称せられた。夫人ますえさんは其後、言語に絶する苦労を重ねたが、幼子達六人もそれぞれ一家をなし、長男譲氏が家督を継承、益々の繁栄をみている現今である。

遺族
夫人:まつえ 
長男:譲 婦:千洋香 孫:勝彦 婦:美重香
曽孫:志津穂 登 孫:秀樹(在倉敷市) 婦:初子 
孫:ゆかり(在神戸上槇原家に嫁す)
長女:令子(在江府町生田家に嫁す)二女:土子(山本家に嫁す) 三女:啓子(在大阪岡田家に嫁す)四女 :悦子(駒場家 に嫁す) 五女:教江(在大阪 松原家に嫁す)


見田守登


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