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あの日

「金はいらないよ。」
 おもむろに、男は言葉を発した。
突然大きな音がしたかのように、僕は顔を隣に向けたが、独り言かと思い、眼をグラスに落とした。
 ほんの30分前に、フラフラと上機嫌でやってきた男は、僕の席の左隣に荷物を置き、その隣の席に座った。当然、僕の右隣は紺色のビロードで覆われた柱になっているので座れないのだ。この柱は、物思いに耽るには丁度いい枕で度々お世話になっている。
 
 マスターと、親しく挨拶していたので、男はこの店の常連客なのだろう。
 今夜は、珍しくお客も多く賑やかだった。というのは、失礼な話なのだろうが、師走に入り、忘年会シーズンなのでこんなものだろうか。そんな中、一人で飲みに来る客は、カウンターに座るのが自然の流れとなる。会社の忘年会以外、参加というか、飲み会自体の声もここ最近掛からなくなったので、大人数で飲むことは少なくなっていた。必然と、いや偶然か、80年代洋楽が流れるこの店に、僕が通い出したのは、そんな状態だったからだ。
 
 せわしなく動いているマスターがスタッフに指示を出し終わったのを見計らい、僕は飲んだことのないコーヒー泡盛を注文した瞬間、男と眼が合った。
「ただ・・・」
独り言かと思っていたが、男は僕に話してかけているようだ。
「はい?」
「・・・でいけるのさ」
「何がいけるのですか?」
 男は僕を凝視している。その眼は血走っている。僕はギョッとしたが、眼を背けることができない。顔も真っ赤なので、何軒かはしごしてきて、相当酔っぱらっているんだと思った。
「だから、あなたが行きたいところさ」
口元を見ると口角が上がっているが、笑っているようには見えない。一人飲みの時に酔っ払いに絡まれるのは勘弁だ。いつもなら、察してくれるマスターを介して話をできる状況なので、呂律が回らない人と話すのもさほど気にならなかったが、マスターがいない状況がこれほど心細いとは思いもよらなかった。
「・・・僕が行きたいところですか?」
「そう!」
男の声とともに、顔が1オクターブ上がったかと思うほど、縦に伸びたように感じた。僕は咄嗟に店内を見まわしたが、テーブル客はみな、盛り上がりを輪唱しているかのように、喧騒のハーモニーを楽しんでいる。こちらの単音に気付くものは誰もいない。
 恐る恐る男の方に向き直ると、再びギョッとした。異様に伸びていた顔が元に戻っている。どうやったらあんなに伸ばすことができるのか、てか、そもそも顔が伸びるわけはない。あまりにも突拍子もない声にびっくりしただけだと思いたい。僕も久しぶりに酔っぱらっているのかもしれないな。

 今初めて思ったが、燕尾服を着ているではないか。モーニングやタキシードは度々見るが、燕尾服はほとんど見ない。荷物から察すると、結婚式の帰りかとは思っていたが、新郎かも知れない。しかも大金持ちの。
 マスターからコーヒー泡盛を受け取り、一口飲み、コースターの上に置いた。少しほろ苦い味わいが口内に広がる。
「さ、さ、先ほどのお話なんですが・・・」
「うん」
大金持ちの、いや自分とは住む世界が違うはずな男は微笑みながら、相槌を打つ。
「どういうことですか!?」
「だから~、あなたが行きたいところに~お金を払う必要はないって話さ~」
 話が見えない。そんな話した覚えがないし、そもそもこの男から声を掛けてきたはずだ。男は先ほどの異常なテンションの高さとは打って変わり、穏やかな表情で、語り掛けてくる。
「正確には、あなたが行きたい時なんだけどね~」
「ちょっと待ってください・・・」
この男が酔っぱらっているのは確かだ。絡まれているのも。本当に新郎だとしたら、新婦ももう少し経ったら来るはずだ。少し話に乗ってみようと不思議と僕は思った。
「つまり、僕が、行きたい時に行きたい場所に行く場合、お金を払わないでいいということですか?」
「ありゃ~、ちょっとごっちゃになっちゃったね~」
男は、ごめんごめんと謝りながら、改めてこちらに向き直った。左胸のきらびやかな勲章に眼を奪われながらも、僕は男の話に耳を傾ける。
「行くタイミングや地点は追々聞くけど、行きたい時とは、行きたい時間や瞬間のことなんだ。」
「時間や瞬間ですか?」
「そう」
「それは、未来や古代とか、行けるならどの時代に行ってみたいとかの話ですかね?」
「未来には行けないんだけど、古代というか過去にしか行けないんだな~」
過去という言い方に引っかかった。ただ時代を分けるときに使う過去という言葉には聞こえなかった。
「もし、過去にしか行けないタイムマシンがあったら、どこに・・・」
「タイムマシンでもないんだけど・・・」と、話の途中に入ってきて、
「そう、あなたが自身の過去に行く話」
なるほど、そういう話か。というかタイムマシンじゃなくて、どうやって行くんだと、少し不機嫌になりながらも空想上の話に考えを巡らせた。それは、食い気味に男が話を遮ったせいなだけなのか。
「僕が行きたい過去は・・・」
ビロードの柱が眼に入る。なめらかで艶のある紺色が突然毛羽立ったかと思うと、渦を巻くように歪んでいった。雪景色の中、お燗片手に露天風呂を堪能していたところ、突如、誰かが、従業員とは違う誰かが、風呂の栓を抜き出来た渦に、酒とお盆が飲み込まれていくようだった。
 歪みが落ち着いたころ、徐々に形を帯び始めた。それは、絵で描かれた背景に、紙で作られた二面の人形が動き回る芝居だった。

 男は、僕が何を見ているのか分かっている様なそぶりで柱を眺めている。そんな男の様子に気付かず、ただ僕は目の前の紙芝居に眼を奪われていた。
 店内は、相変わらずの盛り上がりで、マスター他スタッフも柱に注視する僕と男に気が付いてはいなかった。
「決まっている。あの日しかない」
声にならない声で僕は吐き出した。
そして男はほくそ笑んだ。

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