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「無知」であると

こんにちは。今日もよろしくお願いします。(コミュニケーション取ろうと砂)

自分が何かを知っていると言われれば、私は何も知らないと口にすることだろう。

なぜなら、私はなにをもって「知っている」というのかそもそも分からないからだ。

「知っている」というが、わたしはそんな仰々しいほどに偉ぶって(つまりはフツーに)「知っている」ということが出来ない。

これ知ってる?

あぁ・・・

「知ってる」ってどういうこと? と答えたなら、まともな会話が成り立たないので、「あぁー」と大抵答えている。アホみたいに、私は言語の規定不可能性に囚われているのだ。

色々なんか考えて、(考えるってどういうこと?)、結局私は何もできない、何も知らないのだと識る。それは理性の暴走だと分かる。(分かるってどういうこと?)

何かを知ろうと、その根源、あらゆるものの原初、初源を探ろうとすると、私はその「無知」に囚われる。何かを知ろうとするほど、私は「無知」ではいられなくなる。知れば知るほど、学べば学ぶほど、その根源と言うか、一般意味としての源初に、ますます手が届かなくなる。

本来は「無知」であるが、私自身が「無知」ではないと知ること(「知る」どういうこと?)ってによって、人間は何かを保っているように見える。つまり、「無知」という絶対性に対して、ある程度の妥当性を持った蓋然的真実を証明することによって、人間は、「無知」から逃れようとする。

その蓋然的真実を証明しようとし、

さらにその証明を証明しようとする、

またその証明の証明を証明しようとし、

そしてまた証明の証明の証明の証明をしようと試み、

そんでもって証明の証明の証明の証明を証明しようとしていくと、そこで「無知」である人間に出会う。

(証明という存在自体が、人間が根源的に無知であることを示しているのではないかともおもったのだけれど・・・、どうなのかな。)

永遠に、絶対に、その根源的な真実にたどり着くことはないのだ。

最近は、ずっとこの根源への「無知」が頭をゴースアラウンドしているから、人に教える時とか、質問に答える時とか、そもそも会話する時に、自分が”知っている”(とされる)ことを話そうと思った時に、急にやっぱやめようと思うようになった。

ということは、どこまでもいっても「無知」である私は、この流れでは何もできないということだ。

なら何かを知っているという人、何かを教える人、何かを答える人というのは、私と比べて、「無知」ではないということなのだろう。そちらの方が、進化してきた人間らしい、よっぽど。

知れば知るほど無知になる。「なんで?」を突き詰めすぎてしまう人間は、「無知」と「言語の規定不可能性」という桎梏に閉じ込められる。知ろうとした罰だバーかァ!!、とでもいうかのように、私は”知らない(?)”ままで、「無知」へと晒される。

考えることと、コミュニケーションを取ることは、トレードオフ的関係にあります。コミュニケーションにおいては、じっくり考えることよりも、意図や情報を伝えることが重要ですから。

そこで考えすぎてしまうと、情報伝達の障害になりますから。

というか、考えることは、あらゆる場面で障害になり得ます。戦場で人を殺すかどうかではなく、とにかくマガジンの弾薬装填数を確認することと、目標に照準を当てトリガーを引くこと方が重要であるように。(多分)

考えることは人間の武器ですが、それが障害になることもまた事実。まさに今、私は考えることに取りつかれた「無知」であり、ある意味で「無能」なのでしょうか。




今日も大学生は惟っている。




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