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全体集合的な、観光

日常、非日常。そういう区別が無くなっていることは、何度も耳にしたことだ。だから敢えて、あることに疑問を向けてみようと感じた。それは、観光というものを部分集合のように捉えていることに対してだ。

つまりこれはどういうことだろう。つまりこれは、観光というものに、それが人間が体験するあらゆる出来事、生活というものに比べて、観光というものを枠の中にあるもの、小さなものとして設定することへの疑問だ。一般的には、「観光」が、日常からの解放だったり、逃避だったり、わざわざ観光のためにすることもあるほどの特別な、枠のあるものという認識なのではないだろうか。

ワタシは、その考えに一石を投じたい。観光とは、部分的なものなのではなくて、むしろ全体集合、或いはその大きな「枠」に近いのではという偏った見方をしてみようというわけだ。

観光が、日常という集合に包括されているというよりかは、日常というものが、観光というものに含有されているというか、いやこの言い方は不適当かな、観光のために日常があるのではないかと表現した方が適切かもしれない。換言すれば、「日常」というものが基盤となっているのではなくて、最早、「観光」というものが人間の営みにおいて基盤となりつつあるのではないかと考える。(もちろん人間の全員がこうなっている!と言いたいわけではない)

最近は、「分散型旅行」というものが促進されようとしているのだが、その是非は一旦無視して、それが、日常と観光の混交というか、区分の曖昧化につながるのではないかと感じている。もちろん直観だけど。

分散型旅行は、時間と場所をずらして観光を行うというものである。人が多い時間帯、人のおおい地域からズレて、観光と行い、感染リスクを低減させつつ、旅行を楽しもうという、なんとも好都合な観光というわけだ。ま、うまく行けばの話しだけれど。

ココから推測できることは、わざわざ土曜祝日の様な休日に観光に出かけるというのではなく、休日を(有給休暇などで)作ったうえで、人とズレた時間帯に観光をするということになり、個人としては依然特別感を感じさせるよう不連続的な観光ではあるが、それを全体として見た場合は、人々は、コロナ自粛以前の状態よりも、絶えず人が観光をしているという状態になるのではないだろうか。:

もちろん、コロナ自粛以前にも、人がいるところを避けて観光を行う人もいただろうが、政策として本格的に打ち出されることで、コロナ禍が収まった後でも、この「分散型旅行」というのが仮に主流になっていくとして、ある意味では絶えず人々の移動が生じるということになる気がする。

人々が、一気にこうドーン!と移動していたような、鉄道での団体旅行というよりかは、全体としての数は変わらないけれど、ちょこまかとしているというか、雨がポツポツと降っていて、その時その時の降っている量は少ない様に感じるけれど、長雨となって、結局一日の降水量として結構あるし、なんなら以前とあまり変わらないよねみたいな感じだ。

だから、今日は晴れ! 今日は冷雨! というように明確に天気の区分が出来るのではなくて、一年一年中、断続的に、つまり「なんか今年って一日中晴れている日って無かったよね?」とでも云うような、雨が一日の内に結局降り出してしまうような観光が、分散型旅行であって、基盤としての観光であって、全体集合のような観光なのではないだろうか。





今日も大学生は惟っている



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