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生活の無償コンテンツ化の中でそれでもweb上に投稿をする:『感情化する社会』

『感情化する社会』において、とある文章を見つける。それは、web上での情報発信を行うことで、意識しなければいけないことだなと思わされることだった。

いまや、その「自己表出」のスキルや深度に関わりなく、webに何かを投稿した瞬間、それは無償労働のコンテンツと化す。そのなかで、人は「日々の行動そのものをコンテンツ化させられていること」にこそ気がつかなくてはいけない。(大塚英志、2016、70)

それが有償ではない限り、web上にあるすべてのコンテンツは、無償労働の結果なのかと学んだ。そして今もnoteには、各人の「日常」を筆頭に、日々の行動が、二つの意味でタダのコンテンツと化す。

そして私も、日常や行動のことをそんなに書いているわけではないが、頭の中での行動、つまり思索を中心に、それを無償コンテンツ化する、無償労働を行っている。

となると、ほぼ人間の生活の多くは、「労働」に支配されているのかもしれないと考えると、少し怖いような。しかし、多くの人は、それに気づいているのか、気づいていないのか分からないけれども、依然web上に、コンテンツを作る無償労働を行う。

承認欲求なり、コミュニケーションなり、そういったものがあるだろうが、とにかく人々は、(特にこの時代においては)例え自分が無償労働を行っているとしても、その労働を行うことによって得られるものが、想像以上に大きいがゆえに、続けてしまうのかもしれない。

そう思うと、今世にあるSNSはよく出来ているなぁと感じる。その利用者に、彼らのあらゆるweb上での活動が、実は「無償労働」であることを知らせないための仕掛けが、張り巡らされている。

もしかしたら、この「note」にも、そう考えると、ちらほら、いや相当程度の仕掛けが張り巡らされているかもしれない。

あぁ、「◯◯日連続投稿!」「スキの知らせ」「コメント」「記事が話題です」「有料記事」「拡散」「音声」「つぶやき」「絵」「フォトライブラリー」などなど。なんだか、noteのあらゆる機能が、「その」ための仕掛けに見えてくる・・・。

ほら今日も

カタカタカシャカシャと、無償労働の音が聞こえる・・・



今日も大学生は働いている。


引用文献

大塚英志.2016.感情化する社会.太田出版


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