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the simultaneous

観光地に行って、そこからライブ配信を行っている人を見たことがある。いや正確には、見たことがあるというよりかは、その音声を聞いたことがあるといったところか。

そのことを思い出したとき、なんとなく、そこには多重の構造がある気がした。観光地に行って、或いは観光をして、そこから配信をする。今の時代、スマホを持つ余裕があれば、ほぼ誰でも配信が出来るという、怖ろしくも便利な時代となっている。

そのような行為の中に、ここからはアントニー・トロロープに倣い、空想というか、思索のゾーンに入るのだが、生産・消費・共有という複数の構造が現れているような気がした。

観光は、観光客(消費者)がいて初めて成り立つものだろう。ワタシがどこかの観光地に行かない限りは、往々にしてその観光地はほぼないものに等しい。観光地は、客ありき。だからこそ、この惨状において、客足が途絶えるというのは、緊急事態以外のなにものでもない。

なら、それは観光地という場所、或いはその観光地の中で準備されている、もしくは偶発的に起こることも含めて、生産者(ホスト側)と、消費者(観光客)の相互交流によってよって、初めてまともな「観光」という現象が起こるのではないだろうか。

観光という現象は、生産と消費が同時に起こるものなのだと考えられる。なら、そこから配信を行う事、もしくはその観光地に関連するような情報をリアルタイムで共有するということは、生産・消費に加えてそこには、より同時的な「共有」という第三の構造が現れるということではないだろうか。

観光というサービスが”生産”され、観光客によって”消費”され、そこで直に、リアルタイムで”共有”される。

ものの生産には、消費までに時間が掛かるものもある。それに、そこからそのものの情報を共有するためには、消費という時間を経なければならない。使ってみたり、食べてみたりして、その後に共有する。これらの流れには、生産と消費と共有の間の時間差があるのではないだろうか。

snsに情報を共有する時間が、如何に短縮されようとも、ブランドもの(に限らないが)の食品の「生産・消費・共有」の時間は、観光地で配信をするという特殊(?)な行動に比べれば、随分長いものに感じられる。

もちろん、観光地というものが形成されるのには、それ相応の時間を要するけれど、問題はそこではなくて、ある程度観光地として成り立っている空間において、観光が消費され、配信(ライブ)という共有の形をとるのであれば、「生産・消費・共有」の時間差は短いもの、或いはほぼ無いものとなるのかもしれない。いやもしかすれば、もうなっているのかもしれない。

そういえば、日曜日には、「世界の果てまで~」のようなタイトルの番組があった。海外には当然行くことが出来ないので、ほぼ日本をめぐるという、ある意味ではローカライズされている番組となりつつあるが、これもある意味では、「生産・消費・共有」の時間差の無さを表しているものかもしれないとも感じた。

現地に行き(まるで観光の様に)、タレントが様々な体験(消費)をし、編集が加えられ、全国ネットで放映(共有)される。その枠の中で同時的な「生産・消費・共有」が、テレビというマスメディアの場では、完全ではないが既に成されていたということだろうか。そしてこのような活動が、個人のレベルで行われるとすれば、ある意味で「観光」という現象を促す状況としては、これ以上に良いものは無いかもしれない。まぁ、コロナが無ければの話しかもしれないけど…

そういえば、日曜日のその「世界の果てまで~」の番組って、観光について考える上で、結構面白いところがありそうだから、ちょっと真剣に観察してみようと思う。多分。




今日も大学生は惟っている



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