人を殺したい程の復讐心ってのは、その人間を”生き”させる大きな根源にもなる
生きることは常に何かに向かう事
生きることは、等しく殺すこと
生きることは幻想的エロスを抱く事
数々の人物が、生きることは何かと問い、答えた
そして私は
Re:ゼロから始める異世界生活に登場するナツキスバルの発言から、あることを感じた。
「殺す、殺してやる……殺す、殺す、お前は殺す、絶対に殺す。殺してやる。殺してやる! 殺して、殺して……死ね、殺させろ、死ね、死ね、死ねよぉぉぉ!」「生きるために誰かを憎む! あぁ、歪で素晴らしいデスよ。ワタシも、ワタシの指たちも、勤勉に励んだ甲斐があったというものデス」「殺す、てめぇは殺す。レムを、お前が、殺す。殺す、殺す、殺すぅぅぅ。あぁ! 殺す! 殺してやる! 死ね、てめぇ! てめぇ、あぁ、死ねよぉ!」
出典:Re:ゼロから始める異世界生活 第三章38 『現実への回帰』
殺すというどうしようもない衝動と願望と復讐心と希求と義務に駆られているスバルは、まさに生きているのだ。他者を殺すというその思惑が、一種の彼を最大限に生きることへの駆り立てるエンジンと化している。
大切だと思う人を、枝を折るように殺されると、どうして人はどうしようもない怒りを覚えるのだろう。どうしてその人物を殺そうとするのだろう。まだ私には、その明確な理由が分からない。
復讐心というものはそれほど大きなものなのだろうか。その誰かを殺すという復讐心が、君を生かすのは、一体なぜだろう。特になにも考えずに云うと、自分が死んでしまっては、そいつを殺すことが出来ないからだ。ある意味では、そいつが生きているということ自体が、自分が生きていなければならない理由だ。もちろん積極的に受け入れられる方向性ではないけれど。
自分が大切だと思っていた人が生きていることによって、自分はやはり生きていなければならない。そしてその人が殺されたならば、生きる意味はもしかすれば、なくなるかもしれない。
しかしそこで、復讐心というものが生まれることもある。それは自分が生きているためのものかもしれない。
人を殺すという生きる意味。
これはきっと人間に特有の感情かもしれない。
他の生物種に関しての復讐心のような本は読んだことはないから、詳しくは分からないけれども、
生きることに必要のない、生命の与奪という目的が、自分が生きるために必要だと感じられる、自分が生きていなければならないと思うのは、よくよく考えてみれば不思議だ。
どうしてだろうという疑問が、また浮かんできた。
どうして生きることに必要のない事が、生きる目的になり得るのか?
誰かを殺してやりたいという盲目的で、盲動的な思惑は、一体どのように生じるのだろう?
「生きるために誰かを憎む! あぁ、歪で素晴らしいデスよ。」
そうか。これが歪であることは、もしかしたら了解済みなのかもしれない。
でも確かに、生きるために誰かを殺してやりたいほどに憎むという在り方を、全否定しているわけでもない。
むしろ、人間が生きるための目的として、なんら不思議ではないとさえ言っているようにも感じられる。
「生きるために殺す」が、「殺すために生きる」へと変化することで、途端に作為性と不可解な感を帯びる。
人間という、その身体性において、動物をはるかに凌ぐ可能体としての特徴をもつ我々は、何かを埋めるための情動から生じる殺生ではなく、新しい何かを求めて、殺人を起こすのだろうか。
どうして殺人をも引き起こす復讐心が、人を生かすと思うのです?
それが嘘だとしたら、なぜそうではないのだと思うのですか?
殺したいという欲求の根源には、一体なにがあるのです?
殺す? 死ぬ? 生きる? 生きる・・・?
う~む。人間における、根源的な問い、ッデスッ。
と
今日も大学生は惟っている。
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