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あぁ・・・どうも(驚):『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学史論」

先日、誠に勝手ながら、『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学史論』という本の書評を書かせていただきました。

すると、『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学史論」を書いた本人の方が、わざわざこの記事を見つけてくれたのでしょうか、snsでこのようなツイートをしていました・・・。

そして書評では、

本書では、副題にある「感情」がキーワードになってきますが、イマイチこの「感情」について、よく理解できませんでした・・・。アントニオ・ダマシオや、スピノザを例に挙げながら、説明してくれたんですが、いまいち「友敵関係」と、どのようにかかわるのかが、不明。まぁ。読解力がシンプルに低いだけかもしれないですがね・・・。もう一度、読もうと思いますわ。

と書いているのですが、著者の方からの、アドバイスのようなものを拝見させていただきました。「感情」について、よく分からなかったなァ・・・と書いた居たので、おそらく、私のこの記事を読んでくれたのだと思います。そう信じましょう!

アドバイスを基に再考すると、おそらく言語における問題を、論理的な形式だけで追及すると、クレタ人のパラドックスと呼ばれる問題(「クレタ人は嘘つきだ」という文言)や、言語の規定不可能性、言語の多義性が生まれてしまうから、論理だけで考えてはイケナイということなのかなぁと感じました。

言語の問題を言語の論理的な部分だけで解決しようとすると、問題が生じるという考え方は、竹田青嗣さんの「現象学は〈思考の原理〉である」に通ずる考えかなとも感じた所です。

(そういえば、この本の書評はまだ書いていませんでした)

そして、「友敵関係」自体も、人間の出会いが「不安」や「恐怖」に端を発するもの、つまり、敵が敵であるのではなく、その敵以前の人間が、敵だと、自分に死をもたらすものだと信じ込んでしまうからであり、そこに生まれ得る感情に、焦点を当てたということでしょうか・・・。

この感情に、「中動態」という考えが重要な役割を果たすとあったが、(中動態は理解できたけれど)、これは、不安などの「友敵関係」を生み出しうる感情に対して、解り易い二項対立的な思考を基に考えるのではなく、脱構築的に考えよ、ということだろうか?

まだ一回しか読んでいないので、完ぺきには理解できてはいないですが。(完ぺきに理解できるなら、最初から読む必要はありませんけれど)

ということで、『「友」と「敵」の脱構築 感情と偶然性の哲学史論』と著した本人の西島佑さんが、この記事を見ていたクレタかもしれない・・・!という内容でした。

直直(?)に、アドバイスのようなものも拝見できたので、望外の幸福ですね。


今日も大学生は惟っている。


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