「異日常」と「非日常」の違い

非日常の観光社会学 森林鉄道と旅の虚構性」という本を読んでいる時に、私はある疑問を抱いた。

それは、「異日常」と「非日常」の違いは一体なんであるか? という疑問だ。

この著書にも一応定義のようなものが記載してあるが、正直分かりにくかったので、私独自の解釈をつらつらと書いていこうと思う。

まず、非日常からだ。

これは、「日常に非ず」と書いているので、「日常ではない」という意味だろう。これは一般的な、観光に見受けられる二項対立であるが、現代においては、この二つの境界線が曖昧になりつつあるので、明確な定義が難しく、またこの二項対立上の観光が、唯一の観光であるとの言い切れなくなっている。

敢えて、これを定義するなら、「日常的な生活や雰囲気から離れて、観光でしか味わえないような、また特別感や演出性さえ感じられる空間や体験」であろうか。

詳しい解説は後にして、「異日常」について考えていこう。この言葉を考えるときに、「異世界転生」という言葉が示唆的になるだろう。異世界転生の”異世界”は、「異なる世界」という意味だ。つまり、「非」のように、何かを否定しているわけではないということだろう。

ということは、「異日常」は、また別の「日常」ということであって、日常でないという意味ではない。「異日常」=「日常」であると考えられる。となると、「非日常」と「異日常」は、割と中身の異なる概念かもしれない。

前者は、日常ではないが、後者は日常である。

では、非日常的な観光と、異日常的な観光は、それぞれどのような観光になるか。解り易い例を挙げるなら、「ディズニーランド」が非日常的観光で、地域の宿屋や民泊に宿泊し、その地域特有の文化や歴史を識るというのが異日常的な観光ではないかと思われる。

とはいうものの、両者の区別は、はっきりとしているわけではない。後者の異日常的な観光において、少しでも「特別感や演出性さえ感じられる空間や体験」があるならば、それは非日常的観光へと変化しうるからである。

ここでまた非日常と異日常の違いが浮き彫りになったような気がする。

つまり、非日常は、マキャーネルの云うような、「演出された真正性(staged authenticity)」のようであり、異日常は、特に意図を持って演出されているのではなく、純粋に異なる世界観を楽しむという特徴を備えているということだ。

だがしかし、観光地が本当にそのままの姿を現わしているのかというと、それは疑問に思う所があるので、「異日常」性を完全に備えている観光地は、正直無いに等しいと私は考える。あったとしても、それは観光客の意識の中だけであろう。





今日も大学生は惟っている。




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