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強すぎる輝は、闇と同じである

光は、正義や悪と同様に、非常に曖昧である。正義は、ある側面から見れば、悪であるし、悪も傍から見れば、正義である。

この世にあるものは、つまるところ、何か一つの属性なのである。いや、一つの属性を持っているように見える「何か」であると言って方がいいかもしれない。

光が極端に強ければ、何も見えない。光が強いと、目の蓋は閉じずにはいられない。何も見えないのならば、それは闇に居るのと変わりない。光は、ある段階になると、「闇」になるのだ。

しかし不思議である。どちらも、確かに異なる属性を持ち合わせている。光は闇を照らし、闇は光を奪う。しかし時時、同じものになることがある。

我々人間というものは、恣意性の塊である。発酵と腐敗は、それ自体全く同じであるのに、人間の役に立てば、「発酵」、そうでないのならば、「腐敗」という判断を下される。

野生と家畜も一緒だ。人間がコントロール出来、且つ食用に適しており、その他も諸々の条件を満たしていれば、「家畜」。そうでないのらば、「野生」。

恣意性。言語的製作物。間主観的世界。実存的真理。

結局、人間はこれだけなのだろうか。

理屈をねるねるねるねのように、じっくりと捏ねたところで、「私はなんか嫌だ」と感じてしまえば、それだけで物事を解決させようとするのだろう。

「私はこうだから」で、光は闇になり、闇は光になる。

それが、本当に「私」かどうかは分からないけどね。



今日も大学生は惟っている。


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