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無駄!無意味!塵!絶対に!役立たない大学生の学び。:虚学への妨げ

学生と、企業社会人との違いは何か。

それは、虚学的であるか、実学的であるかであると私は考える。まぁ換言すれば、役に立つか、役に立たないか、ということである。

これは無駄・無意味・塵である。

というかそもそも、大学で学ぶことは、無駄意外の何物でもないと、私はよく繰り返している。

だから、敢えて私は大学で学ぶ人にはこういいたい。「実学は勧めるが、虚学は勧めない!むしろ、こちらから妨げるレベル。」

言ってしまえば、それぞれの学問分野を悪く云うわけではもちろん無いが、哲学や、もしくは文学といった、「役に立たない」と揶揄されてしまうところは確かにある。

けど、虚学でもいいとは思いう。それは目的(テロス)としては、確かに意味がない。無意味だ。

たとえばこんなことを考えてみる。

オフィーリアの両性具有が一体何を意味しているのか? 未来や過去がないとはどういうことか? 半過去と単純過去との違いはなんなのか? 事態参与率と代名詞の格変化にはどのような関連性があるのか? 前置詞の平面性と空間性や(不)可分性は、英文にきちんと現れているか?どのような構造的阻害要因が、観光行動を制限するのか? 人間はその生来の本質として、可能性を持った身体性なのか? 動物はそうではないのか? この本を専門分野の視点で捉えるとどう見えるか? 障がい者への配慮が、人権を侵害していると言えるのか? 地政学や世界システム論の観点から、米韓の情勢をどのように読み取ることが可能か? 人間の生を正当化することは出来るのか? 世界がディズニーランド化しているとはどういうことか、我々の日常はどこから始まるのか? 結局カントの定言命法に私は従うべきなのか?

以前どこかの記事に雑に思いついたものを打ったものだ。

おそらく、読む気にもならない。私も読ませる気はさらさらない。

だが、あそらくこの中に、全く役に立たない塵みたいなものが含まれているかもしれない。コンピューターは、そういった無意味で、無価値のように思われて、非生産的且つ有用性の欠片もないことは、おそらく出来ない。

私は、機械的にはなりたくないのだ。あぁ、なんて傲慢で貪欲なことだろうね。

だけど、それ自体としては、無意味ではないのではと思う。今でこそ違うが、スクール(school)という単語は、元々スコレーという、「暇」を意味する単語だ。

生産的な活動の、その暇に行うような活動が、学校(shcool)の語源なのだ。その意味でも、学校、そして大学自体は、やはり非生産的であろう。

しかしながら、虚学は勧めない。むしろこちらから妨げる勢いだ。是非用法用量を守って、服用するように・・・。というか、そもそもしない方がいいですね。

でも今の大学は、完全に有用性・生産性との関りの中で位置づけられている。もう大学は、「暇」という文脈にあるのではなく、「準備期間」の中にある。おそらく、これは私の独断であるが、大学は「人生の夏休み」であるべきだとは思うのだ。

ここでの「人生の夏休み」は、本当に無駄で、無価値に見えるものを学ぶための期間としての「人生の夏休み」という意味だ。ただ自堕落に戯れるためのものではない。

大学には、もう行かなくてはならないものだと思われている。しかしそうではない。大学は、やはり無駄な事を学び場所だ。ただ今は、大学生という御身分が、中長期的な生産性からもてはやされているだけで、本来は無駄なのだ。

今の世は、「大学」という名前を冠した、専門的機関(ある種のインブリーディングかな)が少なからずある。きっとその大学は、単なる記号としての「大学」なのだろう。

大きく学ぶどころか、狭く小さく学び、もしかすれば学歴があるだけで、学力の無い「無学」が蔓延る世の中で、「大学」は「なんかすげーヤツ」でしかない、もう意味も特にないただの記号なのだろう。(あぁ神聖ローマ帝国ゥ)

からっぽだ。名前だけ。学問も、その目的や結果としては無意味。この中で、まだ「学ぼう」というのかしら?しかも、「虚学」と揶揄されるかもしれないものを?

もしそんなことをするのなら、目一杯の敬意と、諦念と、賛美を送るわ




今日も大学生は惟っている。



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