HSPの憂鬱:ピッカピカの美化


「ひきニートのにゃーさん」のツイートを目にした。怠惰なる私の思考はに、こういうバチバチの言葉が必要だ。人生の軌道に乗っている人、そういう人間は、大体「辛いけど、頑張る」「楽しいから、何でもできる」「人生は所詮虚ろだから、意味なんか求めても無駄」大体このパターン。

HSPは、いや正確にはHSPだからこそ、こういうのに弱い。「にゃーさん」の言葉を借りれば、「HSPが資本主義では不利」。これに尽きる。

ここで出てくるのが、お得意の自己責任。どうもこんにちは。ちょっとまて、どうしてたまたま生まれた国で、奴隷根性発揮しなければいけないんだ?

はいそうです。この性質と、現状に文句ばかり言ってしまう。ここで、企業社会人とやらは、解決と創造力の必要性を説く。さぁ、社会に必要な生産性と有用性の登場だ。何もできない、環境破壊と、搾取の限りを尽くす経済的に有利なスキルを持たない弱者は、死んでるも同然。生きる価値がないとされます。

けれども、「HSPが資本主義では不利」であることには変わりない。ここで、HSPにもきっと役に立つ部分があるんですよとは、思わない。人の機微読み取る力、思いやる力。それ、必要ありますか?って話。経済で重要なのは、中長期的に利益を出すこと。物資の分配を、効率的に行う事。つまるとところ、食べものを”なるべく‶生き渡らせましょうという話。

食慾は・・・一番大事な欲求。心が満たされようが、食べられないなら、人は死ぬんです。一度飢えてみたら、わかるかもしれませんね。そこで結局、思いやりなんて物、必要なくなるってこと。

HSPは、繊細という性質を備えているが、そういう人間なんですと言うが、そう生まれてしまったから仕様がないというが、生きづらいことには変わりないし、この社会のシステムそのものに適していないことも事実であるし、人となるべくかかわらずに、ほどほどに生きていたいということも、変わりない。

なら、そういう生き方を探せばいいのだが、「金」が必要になることには変わりない。生きることに貪欲になることも、なんとなく違う気がするような、正解のような。よく分からない。

HSPだからって、甘えてんじゃねぇという言葉には、耳を貸さない。この文章では、誰かと比較してどうだからということを云うつもりはない。誰かがどうだからというもは、もう無意味だ。(ここから自己責任を派生させて論じる気も無いが。)

文章がばらばらだ。不思議だ、書く文章には、話題の転換の素早さが求められる。

助ける?

人間が真の善意で、(あるいは偽善からでさえも)人を助けることはほとんどない。この世のほとんどは、「サービス」だ。ボランティアで人助けするのは、よほどの馬鹿か、バカか、バカだけだ。見返りを求めずに助けをしたはずが、何も見返りが無いと、見返りが欲しくなってしまうのが、おそらく人間だ。(いっそのこと人助けをして死ねばいいかもね)

それはなぜか、それは人間が「負債」を抱えて生きているからだ。生きているということの「負債」を返すために、何かをしなければいけないと思っているように見えてしまう。

生きていること自体が、「負債」なんて、どんな皮肉なのだろう。HSPはそれに耐えられるのだろうか。あぁ、HSPは生きづらい。そういえば、信憑性は低いし、幸福を数値化するのはナンセンスだけど、日本は、先進国(?)の中で、幸福度が抜群に低いらしいですね。まぁ、信憑性は全然ないですが。

終着点が分からなくなってきました

左手の手首が悲鳴を上げている



今日も大学生は惟っている。


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