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日常が機能に収斂する

目をばっちり開けて、ジ~ッとスマートフォンを見つめる。片手に収まるこの精密機械を目一杯見つめながら、意識はどこか上の空で、色んなことを逡巡しているようだ。なんだか擬音が多くなってしまった。

擬音と言えば、最近は食品を差異化して売り上げを向上させるために、食感を擬音で表現しているとかいないとか。サクサクとフワフワとか、だろうか。というかそこまでしないと売れないかもしれないってのが・・・まぁいいや。

スマホ。いやスマホに限ったことではないな。(どこで聞いたか思い出そうとしたが、断片的な記憶があるだけで、誰がどこで言ったかは覚えていないようだ。)こういう機能が集約されたものが、最近は、いやもう随分前から増えているね。

そういうものを思い浮かべたとき、こう思ったところ。

日常が機能に収斂する

日常に起こりうるものが、「機能」によって代行されているのだなぁと感じる。

電話、メモ帳、ラジオ、調べもの、辞書、本、漫画、動画、写真、ネット、発信、動画撮影、翻訳、道案内、予約、検索、メール、印刷、天気、株価、時計、時間割、楽器、情報共有、銀行、動画コンテンツ、電卓、方位磁石、録音、カレンダー、分度器・・・

スマホには、これだけの、或いはこれ以上の機能が搭載されている。なんだこれぇ!めちゃくちゃ便利やんけ。便利すぎて逆に不便なまである。日常において必要な事柄は、これらの機能によってなされ得るのだから、そら人間はスマホの奴隷になるのだなと。電車に乗ると、冗談かってくらいスマホをいじってるのがほとんど。

これらは、便利な「機能」だ。でも、なんだか奇妙に見えないか。たった一つの箱に、日常を支配されているように見えないだろうか。奴隷の上に立つ主人が、逆に奴隷無しでは生きることが出来ないようになっているような、そんな倒錯してしまった主従関係みたいに、ワタシには見えてしまうの。

「機能」の主人が、身体的に「機能」に従属していることによって、結果的に「機能」より下の位置の存在に成り下がるような感じだろうか。

日常が、と書いたが、「自己」という存在すらも、このような「機能」に屈従してはいまいかと不安になる。日常が、自己が、「機能」によって逆に支配されるというか、手段としての「機能」が、目的的な存在になっているというか、あまりにも重要な位置を占めているようになっていることが、少し怖い。

だからなんとなくこういうことをした方がいいなと感じたことが、その「機能」に支配されない何かを見つけることかもしれない。いや、「機能」が必要ない事、或いは必要の無いように行動することが、やってみると面白いことかもしれない。なんだろうね。「機能」に収斂してしまわないこと。「空白」なこと。「余白」なこと。「空虚」なこと。

「機能」から、溢(あぶ)れてしまうもの。どうしても「機能」に見捨てられてしまうもの。無駄だとか、雑事(chore)とか、怠惰(sloth)と言われて無視されてしまうもの、無いものにされてしまうような、その「空白」(空虚)を、この学生生活で見つけられるだろうか。



全てのものが近くなる。この手に収まってしまうくらいに。とてつもなく近くなる。その分だけ、それらは遠くなるのだ。遠くなって、その近さに甘えようとする。その遠さを、どうすればこの諸手でつかめるだろう。



今日も大学生は惟っている



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