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ミシェル・フーコーの使う「エピステーメー」って、エピステーメー(επιστήμη)と違やん?

エピステーメーという言葉を、哲学の方で覚えると、社会学?で使われている、というかミシェル・フーコーの云う「エピステーメー」に何となく違和感を覚えてしまう。

それは、「エピステーメー」というよりかは、「επιστήμη」という印象が強く、どこかに共通点があるのだろかと疑ってしまう。

ミシェル・フーコーの云う「エピステーメー」とは、

Weblio辞書による

ある時代の社会や人々の生産する知識のあり方を特定付け、影響を与える、知の「枠組」

というもの。

私が覚えていた「エピステーメー」(επιστήμη)は、

goo国語辞書による

知識。ドクサ(臆見 (おっけん) 。根拠のない主観的信念)に対して、学問的に得られる知識

に近い。

どちらも、「エピステーメー」という名を冠しているものの、どうにも対比的なニュアンスさえ感じられるんだが。前者の「エピステーメー」は、人々の知識の在り方を特定付けるもの、特定の時代に囚われた形式に近いのは気のせいであろうか。そして後者は、学問的に得られる知。哲学的に言えば、「普遍知」のようなものだろう。

もちろん、哲学という学問が「普遍」であるというわけではないのだが、その達すべきものとしては、「普遍」に変わりはない。

特定の時代に囚われるものとしてのエピステーメー、より哲学的な普遍知としてのエピステーメー。パラダイムのようなものと、真理(そんなものありはしないけれど)は、それぞれが呼応し、合致するものとは思えない。

なぜ、ミシェル・フーコーは、「エピステーメー」という言葉を使ったのだろう。ミシェル・フーコーは、20世紀の人だ。ニーチェや、メルロポンティ、ハイデガーが否定した、今まで打ち立てられていた「真理」が崩れ去った後の人物。(神は17世紀の時既に凋落したかもだけど)

終局、「エピステーメー」(επιστήμη)というものが、夢幻泡沫なものだと、ミシェル・フーコーは知っていたのだろうか。西洋理性、西洋哲学が内包していた、反自然的で、デカダンス的な「真理」を、もはや信じてはいなかったのだろうか。

だからこそ、エピステーメー(επιστήμη)が、ニンゲンの思い上がり、特定の時代の人間に影響を与える程度のものでしかなく、普遍知とは程遠い代物であるという意味を込めて、人間のまなざしを制約するものとしての「エピステーメー」と称したのだろうかね・・・。

う~ん。

推測の域は出そうにない。残念。




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引用文献

エピステーメー の意味-goo国語辞書、https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC/、(2020年6月11日アクセス)

エピステーメーとは-Weblio辞書、https://www.weblio.jp/content/%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC#:~:text=%E3%82%A8%E3%83%94%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%81%AF%E3%80%81%E3%83%9F%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%AB,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E6%8D%89%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82、(2020年6月11日アクセス)

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