読書中座記:最近読んだアメリカの小説
横須賀に住んでいると喜捨に慣れたアメリカ人を目にする機会が度々ある。市内一の中心部である横須賀中央を歩く。すると日焼けした男が地面に段ボールを敷いて小さな皿を面前に置き座っている。商店の途切れた合間のその一角へデニムにスニーカーを履いたアメリカ人が通りかかる。彼や彼女らは五メートル手前からポケットを片手で探り、自然に小銭を掴むと地面の上の小皿をチャリンと鳴らし立ち去るのだ。
最近読んだ数冊のアメリカ
最近読んだ数冊がたまたまアメリカ文学続きだったのでここで感想を書くことにした。
一冊はサンドラ・シスネロス『マンゴー通り、ときどきさよなら』
メキシコ系アメリカ人の彼女が少女の目線で綴ったアメリカのコミュニティでの日々。
二冊目はジャック・ロンドン『極北の地にて』
これはジャック・ロンドンがカナダでの黄金狂時代を描いた短編集。
そして三冊目は少し前になるけれどカート・ヴォネガット・ジュニアの『タイタンの妖女』を読んだ。これはほんのりとオーウェルの『1984』を思い出させるSF作品。
この三冊のアメリカ人作家による小説には共通して明るさのようなものがある。能天気でハッピーエンドな物語という訳ではなく、むしろ人生をあっという間に壊してしまうような過酷な試練が主人公や彼らの周りで起こるのに。それは楽観とも異なるもので、その根本を手繰ればアメリカの悲しみと強さという両極に差し込まれた電源を見つけることができるかもしれない。
『極北の地にて』
例えばジャック・ロンドンの『極北の地にて』(辻井栄滋・大矢健訳 新樹社)では黄金に取り憑かれたあまり、自らの体や精神が凍傷や飢えといった極寒の厳しさの中で崩壊していく様が描かれている。しかし、読了してみると何か清々しさといっても良いくらいにその苦しみや辛さは乾いている。じめじめとした陰鬱なものは残っていないのだ。
ここで描かれる世界では残酷さや苦しみ極限状態の精神が、まるで痛みとはかけ離れたものであるかのように、筆跡は乾燥している。まるで極北の地では涙が落ちる前に凍ることを表しているかのようだ。
『マンゴー通り、ときどきさよなら』
メキシコ系アメリカ人としてシカゴに生まれたサンドラ・シスネロスの『マンゴー通り、ときどきさよなら』(くぼたのぞみ訳 晶文社)も同じようにじめじめしてはいない。移民である貧しい隣人たちや自分の身に悲しい出来事を起こす環境が随所にありながら、そんな悲しみには留まっていられない。むしろ自転車で湿った空気を置き去りにするが如く駆け抜けていく。読了時に残るのは辛さではない。悲しい、悲しい、悲しい、だけれども不確かで前向きな原動力がなぜかある。それは環境の悪さや用意された不幸に沈殿させない街灯りのようにぽつぽつと街路を照らしている。
シスネロスは、そこはかとなく漂う悲しみと無邪気な明るさを、ホットドック上のマスタードとケチャップのように絶妙な塩梅で塗る。
<ライス・サンドイッチ>の項で主人公の少女は、給食室という響きに憧れる。事情があって家に帰らずにそこで昼食をとる生徒たちに紛れ、彼女もサンドイッチを給食室で食べようと目論む。近所の子は家に帰って昼食を食べる規則の学校で、少女は学校内に残り昼食を食べなければならない生徒たちに混ざりお昼を食べてみたい。ほんの五ページの短い話だが、その些細な逸話の中に悲しみと小さな笑顔がある。
あるいは、<エドナのところのルーシー>の項では唯一遊ぶのが好きな大人であるルーシーがあちらこちらですてきなものを見つける。
”(ルーシーは)たとえばわたしが冗談をいったりすると、立ち止まって、お月さまがきれいねえ、風船みたい、という。だれかが歌を歌っていると、雲をふたつ三つ指差して、見てよ、マーロン・ブランドだ、なんていう。”
そのすてきなルーシーは結婚して郊外に引っ越したらしいのに、なぜか今でもマンゴー通りに住んでいる。しかしその理由が語られることはない。
彼女は彼女自身ではない悲しみまでも優しく代表する。それは小さなマンゴー通りで暮らす愛すべき住人たちであるし、アメリカへ移住した米国以南の人々の決して公には届かない小声でもあり、海を渡った極東の国で一人呟く弱者のかぼそい囁きでもある。
『タイタンの妖女』
一九五九年に発表されたカート・ヴォネガット・ジュニアのSF『タイタンの妖女』(浅倉久志訳 ハヤカワ文庫)に描かれる世界にも悲しみだけでなく不思議で絶妙な明るさがある。
同じSFでもジョージ・オーウェルの『1984』で描かれた絶望的でねっとりと張り付いてくる恐ろしさはヴォネガットの『タイタンの妖女』にはない。同じくオーウェルの『葉蘭をそよがせよ』で執拗に描かれる英国の貧しさや成功できない苦しみの粘着。それらの悲劇によって訪れる読後感のやるせなさも上記の本にはない。
むしろ、そんなことにかまっていられるか、という強さが彼らにはある。
以前読んだ『ブルースだってただの唄』(藤本和子著 ちくま文庫)の中で、犯罪に合い、または自らが犯罪を犯したことのある悲惨な環境のアフロアメリカンの女性たちが「そんなこと言ったって、いつまでもブルース聴きながら泣いてたってしょうがないじゃない」と語るあの強さ。環境や出自や理不尽さを汚れながら踏みつけられながらも前に進もうともがく底抜けな馬力がこの三冊のアメリカ文学にも流れている。
『タイタンの妖女』の訳者あとがきはこんな言葉で始まる。
”どうしようもないほどバカな人間たちの演じる、時にはグロテスクで、時には悲しく、時には美しい、しかしつねに滑稽である物語です。腹をかかえて笑いころげながら、聴き手はいつの間にかしんみりとなにかを考えさせられてしまいます。”
すこーんと突き抜けるようなアメリカらしいあっけらかんとした明るさと、その影で小さく囁く共通の言葉がこの三冊のアメリカ文学にはある。