【小説】Bar logosにて 5〈完結〉


夏海と最後に会ったあの海で、僕らはたくさん笑い合った。
夏海は、最近描いた絵のことについて話してくれたし、どうしても見たい絵があるのだ、と興奮気味に訴えた。
その絵が収蔵されている美術館は少し遠かったけれど、いつか必ず一緒に行こうと約束した。

約束したのだ。

それなのに。
夏海は、僕にその約束を守らせてはくれなかった。

「誰のせいでもないのよ、誰のせいでもないの…」

夏海の母親は、そう言って泣き崩れた。
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。

母親の言葉を反芻しながら、僕は僕でやはり考えていた。
誰のせいでもない…。本当にそうだろうか。
本当に、僕は、夏海の死を防ぐことはできなかったのだろうか。

後悔と自責の念、そして夏海を永遠に失ったとてつもない哀しみで胸が張り裂けそうだった。
夏休みが明け、授業が再開されても、何ひとつ身が入らなかった。思い出されるのは、夏海と過ごした最後のあの夏の日。
夕日が水平線にすっかり飲み込まれ、替わりに顔を出した月の光に照らされながら、僕らは花火に火をつけた。

勢いを増す炎に歓声を上げる夏海。その声、その笑顔。
色とりどりの炎に照らし出されて輝いていたあの日の夏海の姿を、胸に蘇らせる。
吹き出す閃光を。じりじりと膨らみ、ぽとりと落ちるあの紅い玉を。
そして、夏の夜の匂いを。

一陣の風が吹き消したろうそくに、もう一度火を灯そうとマッチを擦る。
その匂いが蘇ると、僕の胸はとてつもない切なさでいっぱいになった。

そうか。マッチの臭気が連れてこようとした記憶は、夏海との最後のあの夏の夜の記憶だったのだ。


ぽとり。
一粒の雫が落ちた。
Bar logosのロゴが濡れて滲んでいる。
そして、わずかに漂うマッチの臭気。

僕は、高校二年のあの夏の夜から、Bar logosへと一瞬にして帰ってきた。
隣では、左耳のない男が先ほどと変わらぬ表情で佇んでいる。
僕は、溢れ出る雫を手の平で乱暴に拭った。
ずいぶん長く時間が経ってしまったかのように感じたが、実際そんなことはなかった。

男は、これまでの僕の回想を受信したことだろう。
静かにグラスを傾けている。
僕も同じようにした。

二人の間にしばらく沈黙が流れたが、やがて男は静かに口を開いた。
その声は相変わらず心地よい響きを纏って耳に届く。

「あなたの“内側”を拾いながら、私もまた思い出したことがあります」

男はちら、とこちらを窺った。
サングラス越しではあるが、その奥の柔らかい表情が伝わってくる気がした。サングラスの奥の目は、きっと優しい。

「今、私が見たあなたの記憶は、もしや私のものではないかと見紛うほど」


「私も同じような感情に胸を貫かれたことが」

男を纏う空気は、穏やかで優しいが、その声にはわずか、切なさが滲んでいる。ふー、と長い息をついて、男は続けた。

「病棟の仲間に、絵画の才能に大変恵まれた女性がいました。
彼女の描く絵画は、独特のタッチと色彩で彩られており、正に彼女にしか描けない唯一無二のものでした。そんな彼女でしたが、病棟に移ってきた当初は、それまで絵画に親しんだことなどなく、本人は絵を描くようになるなどと、思いもしなかったのです。
それが、絵に親しむようになったのは、わたしが創作を勧めたからでした」

「彼女も“内側の現実”を拾っていた?」

「そう。創作が心を癒してくれるものと知っていた私は、彼女にもそれを勧めたのです。創作によって、自らの内に入ってきてしまう“内側”を外に出すようにと。彼女は熱心に絵画制作を行なうようになり、あの独特のタッチと色彩を自分のものとしました」

男が天井を仰ぐ。
カウンターの上で組まれた手に力がこもっている。
女性の描いた絵画を思い浮かべているのだろう。
どんな絵だったのだろう。興味があった。
僕にも“内側”を拾える力があったなら…。
そう思うが、女性の描いた絵を見ることは叶わず、僕は夏海の描いたあの絵を思い出していた。
一番最初に描いた『メランコリアⅠ』だ。

「彼女の絵は、本当に素晴らしかった。……しかし、創作が心を癒すものだと信じていたその時の私は、彼女が変わっていってしまうのをただ見過ごしてしまったのです。彼女は昼夜を問わず、眠る間もなく創作を続けるようになりました」

夏海と一緒だ。
いなくなってしまう直前の夏海は、濃いクマを作りながら明け方まで絵を描いた。やがて、疲れて倒れるように少し眠り、目覚めるとまた狂ったように絵を描き始める毎日。そんな生活が、少しずつ夏海の心身を削っていったのだろう。
まさか、その女性も…。

「えぇ、そうです。彼女もまた。…当時はずいぶん自分を責めました。なにせ、創作を勧めたのは私ですからね。自責の念、そして後悔。何よりも彼女を失ってしまったことによるとてつもない哀しみ」

同じだ。
確かに男が言うように、僕の記憶と似通った感情を男も経験している。
その後の男のことが想像できるくらいに。
僕とこの男は重なっている。

ふと思った。
男にとってのその女性とは、僕にとっての夏海のような存在だったに違いないと。

彼女の心の内に、どうしても気が付けなかった自分が、滑稽で愚かで情けなくてたまらない。
どうしても埋まらなかった距離を今もこの胸に引きずっているのだ。
近付こうとするほどに遠ざかるその距離。

僕が夏海の方へ歩み寄る。夏海は僕が重ねた歩数だけ遠ざかる。
すると、どうだろう。
同じ地面をまっすぐに歩いているはずのふたりが、いつの間にか地平線の表と裏にいる。どこでこうなったのか、わからない。
僕らの意識は、ひとつ平面上に見えていたのに。
僕らの意識は表裏、正誤もなく、地続きなのだ。
ただ、捻じれているだけだ。
その捻じれが、同じ場所に同時に立つことを赦さない。
視点を同じくできない。思考を共有できないのだ。

ふと、ある図形が突如として頭の中に浮かんだ。
これは…

「メビウスの輪」

男がはっきりとした声で告げた。
そして、深いため息の後に続けた。

「あなたは、やはり相当に珍しいお方のようです。
いえ、ごく稀にいるのですがね、あなたのような人は。ごく稀に」

「…ごく稀に?何がです?」

「おや、お気付きでないですか」

男は手元の紙ナプキンを細く折り、短冊状にする。
そして、それを一度捻じり、両極を重ね合わせた。
これは、“メビウスの輪”だ。

「そう、“メビウスの輪”です。
先ほどあなたの頭の中に浮かんだこの図形のイメージですが、これはわたしの“内側”からあなたが拾ったのですよ」

「…え…⁈」

男の“内側”を僕が拾った…?
と、言うとつまり、これまで僕とこの男との間で知覚の共有がなされ続けてきたが、それはこの男の方が僕の“内側”を拾っていたからで…。
それが、さっきのイメージの共有は、逆。つまり、僕がこの男の“内側”を知覚できていた、と?
まさか、そんなことが…。いや、僕にそんな能力が芽生えるなんて…。

「それが、ありえないことではないんですよ」

今度は、男の方が僕の“内側”を拾ってそう答えた。
これまでと変わらない意識の共有。そこに戻ったことに幾分ほっとしていた。

「わたしと会話をしているうちに、“内側”を拾うことができるようになる人間はごく稀にいます。ごく稀ですが。もともと近い周波数のようなものを持っているのでしょう。共鳴です」

「共鳴」

確かに、今までずっと男の声を受けてそんな気持ちを抱いていた。
男が震わせる空間に、自分の感情の波長も合っていく感じ。
その心地よさの中に身を委ねてきた。
そんな時間の蓄積が、能力の開花を促したのだろうか。

「あなたの思考が、わたしの中のこの図形を呼び覚ましたのです」

男が手の中で“メビウスの輪”を弄びながら言った。
その低く厳かに響く声はやはり、僕の“内側”を静かにではあるが確かに震わせる。

“メビウスの輪”。そう、正にこれだ。
歩いていたのは表も裏も、正解も誤りもないはずの一本道のはず。
ひとつ平面上の世界だった。
しかし、その世界は捻じれを内包しながらぐるりと繋がっていてひとつを形成している。
だから、そこに住むふたりはいつの間にか地平線を隔てて立っている。
それが、僕と夏海だ。

きっとこのすれ違いは、そうと気付かず幾度となく起こっているのだろう。
僕と夏海の間に限ったことではない。

世界は、この“メビウスの輪”のように捻じれて繋がっているのだから。


「共鳴も起これば、すれ違いも起こる。正に世界はそういうものなのです」

男が、手の中の“メビウスの輪”をじっと見つめて言った。
その表情は幾分思いつめたかのように見えた。

「彼女はあの時……最後の絵を描き上げる直前にこんなことを漏らしていたのです。『追いつかない』と。あの時、その意味を正確に理解できていれば、もしくは…」

男は苦悶の表情で言葉に詰まった。

「『追いつかない』?…どういうことでしょう」

「恐らく、“内側”の速度に、です。流れ込んでくる“内側”を創作によって“外側”に出していた我々にとっては、その速度が速いことは体に大きな負担となります」

「精神的にも」

「えぇ、だからそのような状況が長く続くことは大変危険なのです。そして、彼女の選択があの現象を引き起こした…」

あの現象…?
僕の頭の中に、ゆらりと蠢くあの黒い霧がスッと分け入ってくる。
僕がまさか…と思うよりもわずかに早く。

「そう、それです。わたしの思い浮かべたイメージをまた受け取っていただけたようですね。あなたは、“声”を聞くことよりも“画”を見ることの方が得意のようだ」

男が感心したように言う。

「あの…、あの現象とは、まさか…」

「そう…、あなたが今見た黒い霧。アレは彼女なのです。そして、彼女と同じようにして肉体を失い、行き場のないクオリアたちなのです」

男の言葉が意味を為さない旋律のように、ただただ耳を撫でながら通り過ぎていく。今度は僕には男の描くイメージが見えなかった。
どういうことだ…?
つまりそれは…。

僕の混乱を受け取り、男はさらに続けた。

「自死を選んだ彼女の、いわば“魂”は、あの黒い霧となり私の元に帰ってきた。いえ、元々傍にいてくれたのでしょう。私がソレを感じることができるまでに時間を要しただけで」

「自死を選択すると、あの黒い霧になる…?」

「私も積極的には信じたくはないのですが、そのようです。彼女と再会したとき、私にははっきりとソレが彼女だと分かったのです」

男は、ふっと寂しそうに笑った。

男の唇の端がわずかに震えているのを認めたその時だった。
“画”が見えた。
それは“イメージ”であり、文字通り“画”だった。
独特の色彩に彩られたキャンバスは、花とも水とも付かない抽象で覆われている。あざやかなの筆使いで描かれた様々な形は、強烈な風に流され渦を巻く。
深い混沌の藍色をした花びらが無限に舞い散り、淡く軽やかな祝福の紅色をした雫が重力に逆らい空を目指す。全てを解き放つ風は、新緑の輝きをたたえながら吹き荒れる。
それは、春の嵐にも似て、夏の日差しのようでもあった。
その嵐と光の中、ひとりの女性が佇んでいる。
あぁ、彼女がそうだ。
そして、彼女が微笑みかけている、ひとりの男は今目の前にいる、左耳の無い男だ。

「…狂人の戯言と笑っていただいても構いません」

男は帽子を少しあげて、無い耳を見せた。

「いえ、信じます」

僕は、今垣間見た“画”を決して忘れまいと胸に誓った。
そして、この時空に未だ彷徨う夏海の意識について思い描いてみる。どこにも行けず空を漂うだけとなった夏海を思うと心臓を掴まれたように胸が苦しくなった。

今もどこかに夏海はいるのだろうか。
いつか僕は夏海の“画”を見るのだろうか。

僕の視線はぼんやりと空を彷徨い、ふとあるものに目を留めた。
先ほど男が弄んでいたメビウスの輪だ。

似ている。
このメビウスの輪に。

入ってくる“内側”と戦うように創作を続けた彼女。
夏海もきっとそうだったに違いない。
そして、いつしか彼女たち自身があの“内側”と同じになってしまった。
このメビウスの輪のようにひるがえって。
連鎖はまた繰り返される。
きっと彼女たちは、声の聴ける者、姿の見える者に助けを求めるだろう。
そうすれば、また生み出すかもしれない。
彷徨える“内側”を。行き場のない黒い霧を。

「そうです。私はその連鎖を断ち切りたい。もう二度と彼女のような存在を生み出してはならない。今度はそのために戦うのです」

「…戦う。どうやって…?どうすれば、その連鎖を断ち切れるのですか」

僕だって、今もどこかで寂しく漂う夏海を思うと男と同じ気持ちになる。
この悲しい連鎖を断ち切る。もしも、今の僕にできることがあるとすればそれしかない。できるならば。

「戦い方があるのです。」

「戦い方…?」

「『軍旅は舒(じょ)を以って主と為す』。司馬法の中の言葉です。
軍隊は穏やかであった方がよいという意味ですが、わたしは勝手ながらこれを、“真実こそ偽に含ませ間接的に伝播せよ”と読み替えました」

「というのは…」

男の真意が掴めず、聞き返す。

「信じがたい真実は、声高に叫ぶと潰されてしまう。であれば、真実として訴えないほうがよいということです」

男は続けざまに言った。

「皆、たったひとつの現実を、そうと信じていきているのですから。信じがたいものは困るのです。だから懸命に排除する」

「メッセージは解りやすくあってはならない」

「…え…?」

「そう。だからこれは小説なのですよ」

小説?
ダカラ コレハ ショウセツ ナノデスヨ。

男の声が、水を介して届けられるが如くぼんやりと輪郭を失って耳に響く。

「…それは…どういう…」

こちらを覗き込む男のサングラスに僕が映る。
急に僕を取り巻く空気が変わったように感じられて周りを見回す。
此処は、『Bar logos』だ。

左を向くと鉄扉の入り口がある。幾何学模様のステンドグラス。
壁は“外側”と全く同じ造りで、“内側”への扉がそこにある。
ステンドグラスと同じ模様を描いた絵画がほぼ正面に。
その両脇の棚には色とりどりのボトルがずらりと並んでいる。
カウンターの灰皿には、男がさっき擦ったマッチが一本。あの匂いはもうしない。
僕は自分の手の平を見る。左の手の平に扇状の線がある。覇王線だという。
それを教えてくれたのは、今左側に座るこの男だ。
その男は今もこの僕を覗き込むように見つめている…。

コレハショウセツ。

「そう。フィクションと見せかけた真実であり、真実と見せかけたフィクションです。どこまでも真実であり、どこまでもフィクションです。…このメビウスの輪のように…」

カウンターに転がるのは、ねじれて繋がるひとつの輪。

僕は急に、何者かの気配を感じた。この世界の“外側”で自分を見つめている存在の気配。正面に見えるあの絵の中に入り込んだような感覚だ。
この“現実”では、僕は“外側”からこの絵を見ているが、別の“現実”では僕はこの絵のようなもので“外側”から誰かに見られているのではないか。
そして、この絵のように誰かの意志と手によってここへ運ばれてここに存在しているのではないか…。

得体の知れない大きな者の視線を感じ、同時に自分の全てを掌握されているような圧迫感を感じる。

なぜ急にこんな感覚に陥る?
その問いに、別の僕が答える。
――なぜなら、これは小説だから。
僕が小説の“内側”にいるから——。

そもそも、なぜこの男に話し掛けたのだったか。
分からなかった。
照明の暗いBarの店内でサングラスを掛けている男がいたとして、その理由など訊ねるだろうか…。視力に問題がある可能性は大きく、冷静に考えれば失礼な質問だ。ましてや、初対面の男だ。
ではなぜかというと、これが小説だからだ。


物語は、この“台詞”からはじまる。
この一言がなければはじまらない。

「なぜ、こんな暗闇の中サングラスを?」


大体、僕はいつこの店にやってきたか?
どこをどう歩いてやってきたのだ。
店の“外側”に掛かる『Bar logos』のサインを見た記憶があるか?

そして、僕は誰だ?
僕の名前は――?

どれも思い出せない。

それは 描 か れ て い な い。
全てはこの場面、この一言からはじまった。

「なぜ、こんな暗闇の中サングラスを?」

コレハ ショウセツ ダカラダ。


「“現実”は実のところ数多あり、我々はその“現実”間を行き来しているのです。ところが、リアリティはそれを許さない。そこで、リアリティのない“現実”についてを訴えるためにはフィクションが必要なのです」

男の声にはっと我に返る。
“現実”。
フィクション。
白昼夢を見ている気分だ。ただ、僕は確かに此処に存在している。
僕の信じる“現実”が“現実”なら、の話だが。

「結局の所、人は主観の中でしか生きられないものなのです。いくら客観的に“現実”を見たとしても、それはあくまで客観的、であり、客観にはなり得ません。つまりは、人はそれぞれ自分という人間、ただ一人の主観の世界で生きていることになります。それぞれの、たったひとつの物語を」

男がおもむろに立ち上がる。
思わず僕は混乱した頭を抱えて身構えてしまう。


「あなたには特別にお見せしましょう。あなたが最初に私に対して抱いてくださった興味の種。その種明かしは、あなたにだけは誠実になされなければならない、と強く感じます。」

そう言って、男はずいと顔を寄せ、サングラスに隠されていた瞳を見せた。
僕だけに。
それは、ほんの一瞬だった。

「“見たくないものを見ないため”。そして、実はもうひとつの理由があるのです。…それは、“見せてはならないものを見せないため”」

その一瞬。
男の瞳に見据えられたその時、僕の世界はくるりと反転した。
時は止まっていた。
いや、時空は粘性の恐ろしく高い液体で満たされたようになり、果てしなくゆっくりと流れているようだ。
止まっていると誤解をするスピードで。
そして、同じようなスピードではあるが、確実に僕の中に生まれる感覚があった。


これは……なんだ…?
過去に味わったことのない、不気味な感覚に襲われる。
未知の感覚。眩暈。実際に、目の前が暗くなる…。視界の端が暗くぼやけて、ゆっくりと狭まってくる。
そして、同時に胸にとてつもない不安感が襲ってきた。
不安…?この感情をそう呼ぶのか?
分からない。
この感覚、感情はこれまでに抱いたことのないものだ。
僕は、知らない。
今感じているものを何と呼ぶのか、僕の“内側”の状態を伝えるための言葉を僕は、知らない。

男の瞳は、その声と同じ深遠なる闇そのものだった。
暗く澱んだ、底なしの沼。
見据えられたが最期。沈む。沈んでいく。
とてつもない重力を有するブラックホール。
僕を捕らえ放さない。光の拝めぬ本当の闇の底へ。
僕は沈んでいく。
抗うことは叶わずそれは法則に従うように、ただ、泥の沼のようにゆっくりと僕を飲み込む闇だ。
時は停止しているのに限りなく近くゆっくりと流れ、永遠をかけてそれでも確実に僕を飲み込んでいく。

心臓が激しく鼓動し、息が苦しくなってくる。
抑えがたい動悸に胸を、頭を掻きむしる。
次第に汗が滲み出す。
手が震える。背筋がすっと寒くなる。
涙が滲む。胸を覆う虚無感。
空っぽで“ある”。
無いという大きな存在が“ある”。
今、それが胸を覆い埋め尽くす。

あぁ、そうか……。
僕は、今とてつもなく――

「……死にたい……」

その一言が蓋だった。
見開かれた眼球に張り付いていた涙が堰を切ってあふれ出す。

「大丈夫」

子どものように泣きじゃくる僕に、男がそっと触れる。
肉体で、ではなくその声で、僕の全身をくまなく撫で、包み込む。

「大丈夫です。あなたは今、その“シニフィアン”しか知らないだけです。あなたが今感じているもの、それを表す“シニフィアン”はきっとあの扉の向こうに」

男の声が、僕の“内側”の波に寄り添い、美しい旋律となって空間を震わせた。その振動は、あの鉄扉まで届き弱々しく跳ね返り消失する。
『Bar logos』。
“logos”は言語。そして、宇宙の根本原理。
そして、言語は神。
その“logos”の対称に“レンマ”がある。
それは、分別も時間もない全体を抱合する感覚だけの世界。
此処はまだ、“logos”の世界なのだ。

僕は、落ち着きを取り戻しつつある中で濡れた頬を拭いながら、ぼんやりと考えていた。
そういえば、伊坂幸太郎の小説にこんな男が描かれていなかっただろうか。
自分の目を見せるだけで、他人を自殺に追いやってしまう特殊能力を持った殺し屋だ。確か、通名を“鯨”とか言ったか…。
大きくて黒い“鯨”。
悠々とその巨体をくねらせ泳ぐ姿が、僕の胸に蔓延る“闇”と重なる。
そうだ。あれも小説だ。

そんなことを考えながら、僕はよろよろと立ち上がる。
男が僕の肩に手を掛け、つぶやいた。

「さぁ、もう行かれてはいかがです?その感情に名前を付けるのです。あなただけの、名前を」

僕はもう取り乱してはいなかった。
胸にうずまくものの存在に変わりはなかったが、“内側”は静かに波を立てるばかりで、その振動がむしろ心地良いくらいだった。
そのわずかなざわめきが、僕を前へと歩かせていた。
『Bar logos』。そのサインの掛かった鉄扉へとゆっくり歩き出す。

ボーン、ボーン。

その時、壁の柱時計が午前二時を報せた。
男と出会ってから一時間しか経っていない。
それでも僕はもう不思議な気持ちがしなかった。


「大丈夫。あなたは、覇王線を持つ人です。かのマザー・テレサも覇王線を持っていたのですから」

僕の背中に男の声が届く。
この男にもう二度と会うことはないだろう。
僕は知っている。そして、男が言うように大丈夫なことも知っている。

ただ、この扉を出た後のことは、知らない。
僕は、重い鉄扉を開く。
ここから先、どうなるのかは僕は知らない。
誰も知らない。

なぜなら、これは小説だから。
小説は、ここで終わりだ。


END

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