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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 第二部』 感想・考察

 妻に「村上春樹って面白いの?」と聞かれ、そのとき読んでいたところがちょうど官能小説のような感じだったので、「うん、まあね」と精一杯、平然を装って応えた。続けて、「村上春樹って、よく分からない話を書いていて、なんでノーベル文学賞とか言われてるの?」と聞かれて、「よく分からない話を世界中の人に読ませてるからじゃない?」と言っておいた。

 その時は適当に答えたけど、もう少し真面目に考えてみた。これまでの私小説のような日本文学は、誰しもがもっている人間の根幹に近い深い部分での共感があって、書かれている内容はとても具体的なものだと思う。一方で村上春樹はもっと抽象度が増していて、その時の読者の表面的にあるパーソナルな状態に、いかようにも形を変えて解釈を与えるというもので、これまでの日本文学とは違う、新しい文学性なのだと思う。そのような解釈の多様性が、世界中の人に読まれる所以ではないかと思う。実は何か一貫したメッセージが込められているのかもしれないけれど、私にはそこまで分からない。

 まあ、そういうわけで、一部も書いたので二部も書かなければ思っているわけだけど、こんな解釈あってもいいよねくらいに見て欲しい。前回のリンクも貼っときます。

 ※たいしたネタバレはないと思いますけど、気になる人はご遠慮下さい。


 私は第一部の感想で「量子力学的な多世界解釈を文学的に書いているんじゃないか」みたいなことを思ってしまったため、その考えを引っ張りながら読んでいるわけだ。だから、主人公が井戸の中に入って考え込んだときは、井戸型ポテンシャルだ、と真っ先に思ってしまった。

 井戸型ポテンシャルは、エネルギー障壁に囲まれた井戸の中に、電子を一つ入れて、どんなエネルギーになるか考えるやつで、そこで主人公は自分はどんな状態なのか考えてるんだな、と思った。そこで取り得る状態は不連続的であることが重要だと習った。そうしたら意識の世界で「壁をすり抜ける」という描写があって、トンネル効果だ、と思ってしまった。

 トンネル効果とは、エネルギー障壁をすり抜けていく現象のことで、よくマクロに置き換えた例で、可能性が低いだけで手が机を突き抜けることだってある、みたいな話を聞くあれだ。多分そんなことはないけど。主人公は越えられないはずの壁を越えて、向こう側の世界に行ったということだと思った。井戸から出てからは、違う世界線に来たみたいになっている。

 また、綿谷ノボルと主人公の関係は、エンタングルメントを示唆しているのではないか。二人は切っても切れない関係を持ち、主人公が失っていく世界で、綿谷ノボルは獲得していき、その逆も然り、とマルタやクレタが言っているように、相反する性質を持っている。主人公は様々なことが複雑に絡み合っていると言っており、綿谷ノボルだけでない、色々なものとエンタングルの状態になっているのではないかと思われる。

 そうして、量子の不思議をマクロの不思議に置き換えているのだ、という妄想はこの辺で終わろうと思う。他の作品との共通点として、クレタや電話の女と意識の上で交わるというのは、1Q84でも天吾と青豆が、肉体的にはやってないのに子供を授かることに通ずるファンタジーを感じた。スプートニクの恋人では、世界は寂寥をエネルギーに動く、みたいなフレーズが個人的には印象的で、村上作品は全体的に、孤独というか、他人にあまり依存しないような社会でのあり方みたいさなこともテーマ的に感じられて、この本もそういうところがある気がした。

 

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