30歳になったら死ぬ
いつだったかしら。
私は学生時代、この文章を書いた。それからもう四年は経って、今では毎日、労働している。
あのときからなにも変わらない。
それでも、卑劣な自己正当化だとしても、悩んできたのだ。太宰治の『富嶽百景』より、人一倍悩んできた自負だけはある、とあったが、それと同じようなもんだ。
そして現在、一つ決めたことがある。
30歳になったら死のう。
なぜ三十歳なのか。幾ばくか猶予が欲しかった。
行きたい場所があったし、育ての親が私の死を感知して欲しくないと思ったから。
海外へ行きたい。ヨーロッパに行きたい。
ナポリを見てから死ね、とゲーテも言っているし。
ケストナーの描いたドイツのクリスマスも見たい。
そしてなによりフランスのプロヴァンス地方。
ドーデーの描いたあの暖かくて豊かな風景を、一度でいいから見てみたい。
だから、まだ死ねない。
生きる理由はない、死んでいないだけなのに、これだけは。
私の母親はどうやら、精神病を患っているらしい。
らしい、というのは、その精神病が私の育児に影響を及ぼすと考えて、幼い頃、0歳か一歳か、そのときから母方の祖父母と暮らしていたから、定かではないのだ。
一番最後の母の記憶は、緑色と黒の混じったワンピース、顔は分からない。これが恐らく、最後の記憶。
祖父母のところで暮らしていても、5歳くらいかしら、3歳くらいかしら、分からないけれど、度々母親と父親と、出かけていた。
私の場合、というより、同じような境遇の人もそうだけれど、母親と父親よりも、祖父母の方がずっと身近で、いわゆる親、というやつなんだろう。
それは必然、別れのときも早いわけで。
年齢から、三十歳頃がそうなんだろうと、これは昔から考えていた。
祖父母が私の死を知ったら、きっと悲しむ。それはよくない。
だから、まだ死ねない。
一日一日が消えてゆくのを、ただ見ているだけなのに。これだけは。
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こんな話を聞いたことはあるだろうか。
エンジェル・ダストという薬を銀のカプセルに入れて、いつも持ち歩いている男がいる。
その男はいつでも死ねる安心感を得ながら、日々を生きている。
完全自殺マニュアルという本の著者の知人の話らしい。ノンフィクションかは知らない。
30歳で死ぬ、というのは、これと同じだ。
今日なにか、とんでもない罪悪や羞恥を覚えても、どうせ30歳には死ぬのだから。例えどんなに破滅した生活を送っても、どうせ死ぬ。
悲劇から死ぬのではない。過程により、そうせざるを得なかった。のは確かだが、私は、幸せになるために死ぬ。
情熱のある人たち。こう思えばいい。
死にたいやつは死なせておけ、ぼくらはこれから朝飯だ。
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