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『感傷よりも青い月』10(完)

「まず、狼京介が犯人であるという前提を考えてみたんです。警察も、事件は狼京介が犯人であるという前提条件から動いている。では、どうして狼京介が犯人と思われているのか? これは綾子さんが実際に犯人を殺害現場で見ているからですね。もちろん、それだけではありません。現場から逃走したという経緯もあります。思えば、狼京介は私が十年前の事件について話すまでは、綾子さんの正体に気付いていなかった。旧姓の楪綾子としての彼女は知っていても、榊綾子としての彼女は知らなかったんです。子供の頃から十年経っています。顔を見ても気付かなかったのでしょう。なによりも綾子さんは事件のショックで、髪の色が変わっていた。元々の髪質もあるのでしょうが、ストレスの影響で赤くなっていた。気付かなくても無理はない。反対に綾子さんは、狼京介の顔を覚えていた。綾子さんが目覚め、顔を見られれば犯人であることが発覚してしまう。警察が来る前に狼京介は山を越えて、逃走しました。以上のことから、綾子さんは先生が殺害された瞬間に、はじめて狼京介と顔を合わせたのだと判ります。以前に顔を合わせていたら、自分の両親を殺した犯人であると気付いたでしょう。綾子さんが部屋から出ることはほとんどなかった。所用があれば、私が済ませていましたから。狼京介は十年前の事件が発覚するのは時間の問題だろうと逃げました。榊籐次郎殺しについての彼が犯人である根拠は、実際には綾子さんの証言でしかありません。そして、警察が綾子さんの証言を採用したのは、綾子さんが犯人ではないという理由からです。もちろん、刃物恐怖症とも言える状態の綾子さんが犯人だとは思えません。本邸の家政婦さんからの証言を鑑みても本当のことだと思います。仮に嘘だとしても、殺人犯である綾子さんが部屋に留まるのはとても不自然なことです。しかし、狼京介は本当に犯人だったのでしょうか。綾子さんの証言が真実だとするなら、ベッド端に隠れていたとはいえ、犯人が綾子さんに気付かないほどの暗闇に部屋はあったのでしょう。逆に綾子さんは隠れながらにしても、十年前の犯人と眼前の犯人を結び付けることができた。本当かは微妙なところです」

息を継いで、話しを続ける。自分の声だけが白い壁に反響した。

「仮に顔を認識できたとしましょう。意識を失った綾子さんは自室にて目覚めます。私たちは唇の動きを読み取って、狼さんと言っていることに気が付きました。犯人を告げようとしているのだと思いました。警察の取り調べにも綾子さんは犯人が狼京介であることを告げています。ですが、どうして綾子さんは犯人の顔と名前を一致させることができたのでしょう。何日か前に先生から堤さんの名前は聞いていました。堤さんの名前ならば、綾子さんは知ることができたでしょう。しかし、私たちは当日に運転手として来訪した狼京介のことは知りませんでした。私は来客のことを綾子さんに話しましたが、狼京介の名前は伝えていません。犯人から名前を聞いたというのもありえない。狼京介は綾子さんにとって、十年前の犯人の顔ですからね。三階にいる時に狼京介の名前を呼ぶ声が聞こえたとしても。犯人の顔を見ていない以上、顔と名前が一致することはない。先生は眼鏡を外し、消灯後の部屋で俯せでいたところを刺されました。死の間際に犯人の名前を呼んだわけもない。私たちは本人の要望もあって、犯人のことを名前で呼んでいました。綾子さんが苗字を小耳に挟むなんてありえないんです。覚醒後の朦朧とした意識の中で、親しげに『オオカミサン』と知らないはずの苗字で呼び掛けた。私が音にならないはずの声を読み取ってしまった。実際は瞼を開いた時に、視界に入った名前を呼んだだけだった」

「………………」

「綾子さんが気を失ったのは、犯人にとっても予想外のアクシデントだったのでしょう。本来は、朝に私が綾子さんを発見して終わるはずだった。そうすれば綾子さんは狼京介が犯人などとは言わず、犯人の容姿の特徴や、着ている服などを私に伝えたでしょう。やがて警察が来れば、狼京介は何事もなく逮捕されたはずです。犯人は目覚めない綾子さんによって、急激な方針転換を余儀なくされた。狼京介が犯人だと、綾子さんからは変わらずに伝えてもらう必要があった。しかし、目を覚まさない。このままでは警察が真っ先に疑うのは綾子さんです。警察には綾子さん以外が犯人であると思わせる必要があった。そこで犯人は私に対して、過去の事件を語るように言ったのです。狼京介はさぞかし驚いたことでしょう。自分の命運は顔を見られた時点で尽きてしまう。十年前の犯人であることを隠し通すのは難しかった。警察が来てからでは逃走も難しくなります。短い間に決断を迫り、悩んだ末に狼京介は逃亡した。真犯人にとっても苦渋の決断だったのでしょう。偏に事件の目的は狼京介の告発にあったように思えますからね……ともすれば綾子さんが疑われかねない危険な計画でしたが、犯人にとっては榊籐次郎殺害と狼京介の逮捕という二重の目的があった。綾子さんが目撃者を偽り、真犯人は犯人を偽った。警察の眼は狼京介に向き、逃げ続ける限り、彼は過去と現在の両方で犯人なのです。真犯人も把握していない綾子さんの症状を推理するのに、私は手を貸していたことになります。結果的に事件は当初よりも複雑に作用し、犯人たちには有利に働いた。共犯者の綾子さんが洩らした、あなたの本名以外はですが」

十和子は大きく息を吸った。無性に煙草が吸いたかった。

「……報道などはされていないはずですが、警察が喋ったんですか?」苗字のことだろう。随分と前から、堤には表情がなかった。

「取り調べの際に堤さんと彼が父子関係にあるんじゃないかと、私が警察に訊ねました。堤は母方の苗字だそうですね」

「僕に奴との縁はありません。母が離婚したのは十年前のことです。母に対する暴力が原因でした」狼進之介としての彼は、とても冷たい声音をしていた。

十年前といえば、事件の起こった年だ。

「学年は違いますが、綾子と僕は同じ学校に通っていた。母が離婚してすぐの頃です。奴のいない生活は嘘みたいに楽でした。家から追い出して、町にはもう現れないと思うと嬉しかった。それなのに下校途中にあいつを見掛けたんです。フードを被ってはいましたが、明瞭(はっきり)とあいつだと判った。自分を捜しているのだと思い、僕は逃げました。家に帰った翌日に、事件のことを知りました。犯人は目深にフードを被った男だと言っていた。被害者は楪という家族だった」口調は感情を喪失したように淡々としている。

十和子は記事の内容を思い出していた。綾子は犯人を両親の知り合いだと思ったという。それは堤の保護者として、学校で京介を見掛けたことがあったからではないだろうか。

「どうして奴が凶行に及んだのかは判らない。捨てられた自分とは違う、幸せな家庭を壊したくなったのかもしれない。楪綾子の両親が殺されたのは自分の所為だと思った。奴から逃げなければ、彼女の両親はきっと死ななかった」

抑揚のない言葉は反論を許さないものでもあった。理屈では崩せない障壁なのだ。

「あなたと綾子さんは共犯者として連絡を取り合っていたはずです。屋敷に宿泊するのも、先生が独断で決めていたことで、堤さんは知らなかった。狂言を成功させるには、周到に打ち合わせをする必要があったはず」

「前から連絡を取っていました。事件当日にも、情報に矛盾のないように調整した。あの日からずっと計画していたことでもある、絶対に失敗はできなかった。最近になって、ようやく奴を捜し出した。息子として近付き、失くした時間を取り戻そうと心にもないことを言った。すべては奴を殺すため」

激しい言葉を冷徹な意思で紡いで、堤は続ける。

「狼京介は生きている。計画に変更があったのはなぜですか」死んだのは籐次郎だ。

「奴を見つけたぐらいの頃だった。綾子が榊籐次郎から虐待を受けていると聞いた。僕は榊籐次郎を殺そうと思った。奴もまた、けだものだった」

綾子は、夜中に籐次郎の自室にいた理由を語っている。理由を隠し通しては、部屋にいたことを疑われてしまうと考えたのだろう。公にはなっていないが、事情聴取の際にそういう関係を疑わせることがなかったかを質問された。予想外の質問だったため、驚いたのを覚えている。酒に酔った籐次郎は事件当日、眠ったまま起きなかったという。

「しかし、殺すにしても僕らが捕まってはいけなかった。犯人を仕立て上げるために奴を利用しました。それは必然だった。奴らを殺して、僕らが生き残るために」

白いばかりの部屋は牢獄のように冷え切っていた。部屋には生気が欠けている。

「――これからどうするんですか」

十和子には堤たちの行く末が見えなかった。無表情のまま、堤は溜め息を吐いた。

「乾さんこそ、どうされるんですか。あなたは事件の真相を暴いたんですよ」

痛いところを突かれた気分だった。正直言って、目算は立っていなかった。これは答え合わせであって、それ以上の意味はない。関わったからにはけじめを付けなければ、先に進めないような気がしてしまうだけだ。物事の収まる場所を求めてはいたが、自ら収めるつもりはなかった。

「うーん」

堤は簡単にすべてを認めてしまった。彼の誠実な印象は今でも変わらないが、強いて言うならば、それは諦観にも似た誠実さだということだ。狼進之介としての彼は贖罪も終えて、疲弊した戦士が余生を送るかのような達観した気配があった。だが、綾子はどうだろう。彼女はきっと違う展望を思い描いているはずだ。根拠はあったが、それを堤に話すことはできない。それこそが堤の重大な誤認であっただろうから。

「あなたにとって綾子さんはどんな存在ですか」

不意を突かれたように堤は固まった。そんなこと考えもしなかったというように。

「私は綾子さんの家政婦ですから、ほら約束したじゃないですか」

私が家政婦として雇われたのは、主に綾子の世話をするためだった。喋れないというだけで、綾子自身が生活に不自由する部分も見受けられず、屋敷に関してもどうにもならないほどに広いわけじゃない。家政婦の必要性があるとも思えなかったが、主人の籐次郎はまるで綾子を恐れているようだった。

籐次郎自身が綾子を遠ざけるように生活しているとしか思えなかった。綾子の部屋を三階に、自室を一階にしているのもそうだ。確かに生活は歪だったが、虐待があったとは到底信じられなかった。籐次郎が綾子と顔を合わせたことさえ、屋敷ではなかったのである。短い期間だったとはいえ、それは異常なことだ。

虐待が嘘なら、綾子は堤に罪を唆したことになる。無実の籐次郎を殺害し、自由になるために利用したのだ。けれど、事件の日に目覚めた彼女が真っ先に名前を呼んだのは、なにかに縋りたかったからのように見えた。喪失を繰り返して、それでも手元に残ったものが離れていかないようにという願いに思えた。籐次郎を殺害した動機もきっとそこにある。

「今度こそ料理の腕を揮えそうです」

十和子は立ち上がる。動かなかった時間を終わらせたのは堤だった。きっと綾子にはこれからなのだろう。どちらが欠けても駄目なのだ。狼進之介と楪綾子に戻って、喪失した年月の埋め合わせを行っていかなければならないのだから。無垢で残酷な人形の発条を巻いていく人間が堤なのだから。すべては狼進之介と一緒になるための御伽噺なのだから。


キッチンに行く前に、十和子は無性に煙草を吸いたかった。タイミング悪く煙草を切らしている。固まったままの堤に向き直る。

「料理の前に一本だけ煙草を貰ってもいいですか」

車内では吸わない主義だ。意識しだすとどうにも我慢がならなかった。

「いや……そうですね。綾子と一緒に住み始めてからは煙草を辞めたんです」

十和子の渋面を見て取ってか、堤は戸惑うように笑みを浮かべた。笑い声に釣られるように、軽やかな足音が聞こえる。


少女が居間に入ってきた。

                                                                 ――了




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