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俺も老いている

嫌なものを見た。

宇治に実験器具を取りに行ったあと、学内バスに乗って本部に帰ってくると、時計台向かって右側の通路に学生が大量に屯していた。看板やビラを持って新入生らしき初々しい学生たちに声をかけている。その中を、でかい段ボールと自転車の空気入れを持ってぐいぐい進む。幼さなんてもう消えてしまったし、第一この荷物の量では、声をかけられるわけもなく進んだ。

人に揉まれながら、まず素直に羨ましいと思った。
コロナに全てを奪われ大学に行くことすら叶わなかった僕の時代にはない光景。4年前の自分があの場所にいたら、楽しいサークル活動ライフを送ることができていたんじゃないかと思いを巡らせるだけで、それが実現されないことが際立って悲しくなる。
じゃあ大学にもう一度入り直すかというと、就活を始めてしまった今の時点からそんなことできる気がしないし、やはり年齢の差は越えられない。よく芸能人とかで大学に入り直す人がいるけれど、あれは本人にそれ相応の知名度があるからで、有名でもなんでもないただの青春コンプレックスが再入学したところでただのおじさん扱いされてしまうのは目に見えていた。

そんなわけで、半ば諦めの念も抱いていた。君たちはまだ元気で素晴らしいね、思い残さないように全力で大学生活を満喫してねと言いたくなった。こっちの方が下手するとおじさん臭いのかもしれない。
そしてこの思いの核心は、自身の大学生活を反面教師にしてほしいという感情なのではないかとも思う。

包み隠さず言ってしまうと、実は自分の大学生活を少し恥じている。特に入学当初、勉強もサークルも何もなかったのにずっとネットと睨めっこしていた自分が情けなくて、もっと有意義なことができたのではないかと思うことがよくある。しかも知能や行動力が劣っていた小中学生の時とは違って、パソコンもお金もそれなりに手に入れて、自分でできることの幅はずっと広がっていたはずなのに、それでも何もしなかった。そのせいで、あの時できればよかったのにと今になってnoteを始めたりSwitchをやったりしている。

あの時何もできなかったのは、一人だったからだと思う。
一人でいては楽な方に動いてしまう。自分の部屋で勉強できない人間が図書館や自習室に行くのは、ゲームや漫画に手を出さないようにするためではなくて、頑張っている他人を見て鼓舞されたいからだ。今どきスマホでもゲームや漫画はできるが、自習室では他人の目を気にしてそれがしにくくなる (もちろんやっている人もいたが)。大事なのは誘惑のある・なしではない。

しかも一人では思考が固定化する。日々がルーティン化されて、毎日にハリがなくなる。熱心に勉強しようという気が起きるわけがないし、何か始めようとも考えにくい。そんな中で毎日の生活を余儀なくされていたのだから、仕方ないといえばそうなのだけど、もっと金を貯めていればとかもっと勉強をやっておけばとか、今になって考えてしまうのは、いつまでも学生時代を忘れられないおじさんみたいで辛い。

結局のところ、僕もしっかりと老いてきている。
過去を諦め、未来を歩むしかない状況の中で、若者を皺の畳まれた細い目で見ることしかできなくなった。青春という言葉にはもう近づくことができないという気さえする。精神が年老いてしまったら身体もついてくる。そろそろ顔が老けてこないか心配なところだ。


今週の土曜、従姉妹の家に遊びにいくことになった。向こうはもう結婚して子供も2人いて、しかもその子が幼稚園に入ったときた。1回り以上違うとはいえ、大学生で何の音沙汰もない僕とは正反対で、現実が見えてきて怖くなる。
そもそもこのイベントは、僕の「弟分・妹分がほしい」というエゴから始まったものではあるが、それはそれとして楽しく遊んでやりたい。怯えたり泣かれたりしないか少し心配だが、なるべく優しく接してあげることで、「なんか知らないけど優しい人」のポジションくらいはゲットできるはずだ。

向こうからはなんて呼ばれるのだろうか。
お母さんの従兄弟だから、「おじさん」だろうか。

おじさん…

やはり俺は老いてきている。

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