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寂しさを知れ

「守るべきものがない人間は楽でいいですよ」
先輩との初めてのサシの食事で、僕はこう言った。


最近いつにも増して一人暮らしがしたい。家に帰ってきても全員寝ていることが多くなった。家事もひととおりできるようになった。奨学金がもらえたらいよいよ僕を遮るものはなくなる。今すぐに家を抜け出して、一人優雅に暮らすのが夢になっている。

たいてい一人暮らしをすると寂しくなって、誰かといたくなると聞く。寂しさを紛らわすように彼らは徒党を組んだり愛し合ったりする。至極当たり前なはずなのにいまいち納得できないのはそういう学生生活を過ごさなかったからというのが大きい。

一人で苦しくないのは、あるいは別れを知らないからかもしれない。誰かとの生活が特別なものではなくて、それがいつまでも続くと錯覚し続けられているからだろう。研究室の先輩もほとんどが就職したが、OBOG会などがあればきっと会うことができる。特別悲しいことでもなくて、あの日の先輩のように大粒の涙を流すことはできなかった。

勘違いしないでほしいのは、別にひとりぼっちなわけではない。誰かと話そうと思えば話すし、それなりに会話も繋げるし、人並みのことはこなす。それでもまだ自分との対話のほうが、齟齬や軋轢が生まれないというだけを理由に信頼している。

そろそろ寂しさを知るべきなのかもしれない。
大切な人を失った悲しみを僕はまだよく知らない。祖父はどちらもいないがたまにしか会わないのと子供だったのとであまりよく覚えていない。


寂しさだけではなく、いろんな感情が薄くなってきた。喜怒哀楽のうち、残っているのは「怒」と「楽」くらいで、喜びと哀しみがなくなってきている。

感情の起伏が日を追うごとに小さくなって、打算的な返答を送って無感動に喜ぶようになっている。感情がなくなると人はつまらなくなる。もうすでにつまらなくなっているのかもしれない。

先輩には「いぶし銀でカッコいいと思うよ」と言われた。いぶし銀って往年の俳優とかに使うものじゃないのか。僕はダンディとかハンサム系ということなのか。
続けて「武将とかにいたらめちゃくちゃ強いと思う」と言っていた。もうここまで来ると理解の範疇を越えたので、また無感動に喜んだ。

別に嬉しくないわけではない。悲しくないわけでもない。ただ、なんとなく耐えられてしまったり、素直に喜ぶのがつまらなく感じてしまったりするだけだ。僕にとっては全てが「なんでもござれ」であって、でもそれは裏を返すと全てが「どうでもいい」なのかもしれないと気づく。


涙と共にプライドを失ってしまった。自分が耐えられたらそれは無問題なのだと思うようになった。自分が無茶をして解決するならそれでいいと思ってしまうようになった。それでいいともダメだとも、誰にも言われないから自分で判断するしかない。漠然とこれでいいと思っていた。

おそらくこれでは楽しさと怒り以外に感情が持てなくなる。豊かな創作のために、好き嫌いや感動の念を持つ心の隙間を少し空けておかないといけない。
あの日のように失う悲しみを知って、泣ける自分でありたい。

最近は何に固執することもなくなった。アニメもゲームもラジオも漫画も、やめたり始めたりのぼんやりが続いている。1つのことから全ての力をもらっているような人間を見てきて、日々が楽しそうだと思った。僕には到底真似できない、高度な技術だとも思った。最後までやり遂げて、その感想を聞いてみたいとも思う。

大切な人ができて、その人を失ったときのことを想像してみたら、胸が辛くなってしんどくなった。これが喪失の感情と見えた。
喪失で悲しめるように、喪失に慣れておきたい。こんな不純な理由は、きっとアプリに書くこともできないからつまらない。

Twitterじゃなくてnoteで始めてよかった。
しんどい日々が続く。
明日はやりたいことをやる。
書くことがなくなったので、この辺にしておく


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