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人間失格候補者

「斜陽」に惹かれてさらなる太宰作品を、とネットで「人間失格」をポチったのがたしか2ヶ月ほど前。

そこから主に通学の電車で少しずつ進め、昨日の夜ついに読み切りました。


はじめの頃、どうしても人の目は気になりました。とはいえ少し前に家のブックカバーを全て捨ててしまったので、表紙をむき出しにするしかありません。

読み進めるうちにだんだん恥ずかしさのようなものは消え、通学途中に出会った友人に人間失格のことを言うまでになりました。

昨日はやけにやる気があったので、1時間ほどかけて残りを一気に読みきりました。だんだんとおかしくなっていく葉蔵に少々の同情を浮かべつつ最後まで、そして別添の「秋桜」と作品解説を読み切ると、今までより少しは太宰の人間性がわかってきたような、そんな気がして少し誇らしくなりました。


作品解説の中にこんなフレーズがありました。

葉蔵は人間の営みが理解できない。(中略) この点ですでに葉蔵ははじめから人間失格者であると言ってもよいであろう。

作品解説 (鳥居 邦朗) より引用

これを見てあっと声を漏らしかけました。というのも僕、読み始めたころにこんなのを書いてまして。

読み始めた当時の僕には、太宰の幼少期が主題の布石になっているとは思いもしません。素直に「自分もそんな感じだったなぁ」と、思ったことを書いただけです。

とすれば、僕も人間失格候補者なのではないか?という不安が襲います。

毎日のようにネット上のコンテンツを意味もなく浪費しては、泡沫うたかたの笑いに上機嫌になり、過ぎた時間を振り返ると残るのはただ虚しさのみ。酒や薬に溺れ、入院にまで追い込まれた葉蔵 (もとい太宰) と、大して変わらないではありませんか。

今の時点では、僕はまともな人間になれる気がしないのです。友人に「自分は将来、ろくな人間にならないように思う」と漏らしていた本当の意味が、心の内から分かったように思いました。

こういうのは深層心理です。思ってはいても、その詳細を言葉で説明したり、人に表現できなかったりします。友人に半ば病んでいるとの嘲りを受けながらもこの本を読み切ったことには大いに意味があったと思いますし、もっと言うならこれを買うに至った、初の太宰との邂逅かいこうである「斜陽」にも、感謝しなければなりません。

とすれば僕は少しだけ、太宰と違う道を行こう。ここ数日、毎日それを見ていると、瞬く間に過ぎる時間にだんだんと嫌気がさしてきました。しばしの対処療法であっても、この正念場たる今を乗り越えるために、自分を変えます。

明日は土曜日。なるべく見ないように。

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