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開き直りの美学

最近、すごい人に会ったりしまして、ああ自分ってなんて無力なんだろう、なんてなにもしてないんだろうと自分を卑下してみたりしたんですが、今はうってかわって、それをさえ認めてみようじゃないかと思う段階に入ってきました。

「そんなこと言ったって仕方ないじゃないの、だって事実なんだから」
いわゆるタイトルにある通り、開き直りってやつです。

昨日の夜は少しだけ「人間失格」を読んだんですが、やっぱり太宰作品はいいですね。本好きの友人に「話が重くて、読むのに時間がかかる」と言わしめた (ことの真偽は知りませんが) その作品は、僕にとってはかなり違ったふうに写りました。

主人公である葉蔵は、空腹を知らず、何が楽しくて笑っているのかわからない、歪な心を持った少年。実際、自身のことを「人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。」と説明しています。

ああ、なんて、共感できることだろうか
今でこそ人と合わせるようになってしまいましたが、自分も高校では時たま昼食を食べないことがあったりしたものです。昼飯がなくてもがんばれる、むしろとらないほうが眠気を感じなくていいじゃないの、と、けろっと言ってのけたりしました。腹が減ったから食べるというよりは、死んでしまうから食べるのだと無意識に思っていたし、1食抜いてもその分他をたくさん食べることで、1日の合計量が満足していたら問題ないという考え方はいまだに持ち合わせています。

自分の喜怒哀楽がわからなくて、道化を演じるというのもまさしく自分。この前彼に話したばかりです。本来の自分とは違っていても、その場の流れに合わせて陽気な自分になってみることはできて、しかしそれを続けているとだんだん疲れてきてしまうんですよね。この前就活のイベントにいったときには、人事担当者に「自分がどんな時に喜び、怒り、悲しみ、楽しむのか、言語化できるようにしておくといい」と言われて、思わず頭を抱えてしまいました。仲のいい友人の前ではその道化ピエロがふっとメイクを落として、悲しい本性が顔を出します。就活に疲弊した中でこの前の土曜日、友人と会ったときには明らかにうつろな表情を見せてしまって、「元気ないんか」と心配されました。

恥の多い生涯を、僕も送っています。
そんな僕でもいい、と言い切れてしまうのは、太宰治の「人間失格」が、今や日本中に知れ渡り、多くの人に読まれているから。恥の多い生涯を描いても読んでもらえるのだと、文学は表現次第なのだと、気付かされたわけです。

葉蔵の性格は、太宰治自身とリンクするところが多いようです。とすれば自分も、太宰のように生きられる可能性をまだ少しは孕んでいるのではないかとも思います。自分は葉蔵のように少年雑誌を読み漁ることはなく、知識の面ではどれも広く浅く、を体現するような人間ですが、もっとピンポイントに絞れば興味を持って語れることがあるはずです。そういうことを記事にしていかないとな、と思います。

最近の記事でご好評をいただいているのが、この記事。

ひょうろくさんについて語っていた記事がネットを探してもそもそも少なく、またそれらも無許可で写真を添付した上にネットの正誤もわからない情報を載せていたりしたので、これは差別化ができそうだと記事作成に踏み切りました。自分のことを書いてしまうのは時間がかからないからでもありますが、唯一無二性が確実に担保されるから、という理由が大きいようです。新規性に重きを置いてしまうあたりは理系の研究生の血が濃くなってきたのかもしれません。

読み返してみて、なんか読みやすいことに気づきました。
お笑いを全力で楽しんで、多少なりとも自分で反芻できているからだとしたら、今後も書く価値があると思います。

芸人の記事。
これは毎日とは言わずとも、続けられるかもしれない。
行き詰まったら一旦開き直って、打開策を模索してみよう。これからも。

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