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夢、告白、結婚、転職、病…半世紀を経て実感した“人生の選択”の妙「人間万事塞翁が馬」

「ジャミラー!お前は人間の心までなくしちまったのかよー!」

『ウルトラマン』で科学特捜隊のイデ隊員が叫ぶ名シーンだ。


憧れの職業は何ですか

円谷プロ制作の特撮テレビドラマ『ウルトラマン』は私が小学生高学年の頃に放送が始まった。

ジャミラの話をはじめ感銘を受ける内容が多く、いつも日曜の夕方になるとワクワクしてきたものだ。

怪獣たちの魂が宇宙を漂う「怪獣墓場」を描いたシーボーズの回では、古くなった人工衛星などのゴミが浮遊する宇宙のゴミ問題に警鐘を鳴らしているかに思えた。

また、交通事故の悲惨さを題材にしたヒドラの回など胸をしめつけられるようで見るのが辛かった。

その前番組として放送されていた『ウルトラQ』では「人工生命M1号」が運転する超特急列車「いなづま号」の印象が強い。

「いなづま号」が初めて通過するため、皆で祝福しようと子どもたちによる鼓笛隊が待ち構えていたところ、一瞬で通り過ぎてしまう。

これなども、進歩しすぎて味気なくなった科学技術をコミカルに皮肉っているのだと子どもながらに理解できた。

「俺は怪獣映画の監督になる!」

初めて明確な仕事への憧れを持ったのがこの頃だ。

世の中には小学生の卒業文集で「プロ野球選手になる」や「オリンピックで金メダルをとる」など具体的な目標を書いて本当に実現するケースもあるらしい。

しかし私の場合はそもそも卒業文集に何と書いたか覚えていない。

ましてや中学生になると怪獣映画に加えてプロレスやカンフーアクション、さらに漫画「ワイルド7」そしてなにより“女性”のことで頭がいっぱいになっていた。

「怪獣映画の監督になる」夢は邪念に埋もれて自然消滅していく。

片思いを繰り返してついに告白

「惚れっぽい」と言われても否定はできない。片思いもよくした。

中学2年生のときにはクラスで男女から人気のあるIさんを好きになった。色白な美人で秀才、スラッとしたスタイルで立ち姿が凜としていた。見れば見るほど彼女に憧れる気持ちが募っていく。

年末にはIさんに年賀状を出そうと思い立ち一生懸命に書いたが、ポストに投函できなかったと記憶する。

カセットテープに甲斐バンドの『バス通り』など恋心をほのめかす楽曲をダビングしてプレゼントしようとも試みたが、これも渡す勇気が無くて頓挫した。

高校生になると音楽の趣味が合いそうなMさんに片思いした。予備校時代は年上で目がクリッとしたIWさん、清楚な感じで足を組んだときの姿が魅力的なEさん…とにかく惚れっぽい。

そんな私が大学生のとき、ついに告白した。相手は同学年の皆が憧れるマドンナだ。そのうえ学部は違うからなかなかハードルは高い。

当時は携帯電話などなかったので、公衆電話に10円玉を何枚も入れて彼女の自宅に電話する方法をとった。夜7時から8時ぐらいだったと思う。

大学の近くにある電話ボックスの周りを自転車で何度もぐるぐる回りながら、決心するまで数十分はかかった。

ダイヤルして彼女が直接でたのか親御さんが繋いでくれたかすら覚えていない。

それほど緊張しながらも「映画を一緒に見に行こう」とデートに誘ったところすんなりOKをもらえた。

おそらく人生で一番の舞い上がるような気分を味わった瞬間だろう。自宅に戻るときのペダルはさぞや軽かったに違いない。

しかし「ワイルド7」やブルース・リーが大好きな“中ニ”から成長していないような男である。

『ホットドッグ・プレス』を読んだ程度の付け焼き刃では通用しなかった。

当時の映画館は予約制ではなく上映開始時間も調べずに行ったため、満員で熱気が立ちこめるなか立ち見する羽目に…。

やがて彼女が「気分が悪くなってきた」と辛そうにするので、途中で外に出た。

その足で海岸沿いの道を歩きながら交際を申し込んだ。

あなたは私がおつきあいできるような人ではないから…というようなことを言われたと思う。

率直なのか遠回しなのかわからないが、要するに「振られた」ニュアンスだけは伝わった。

その夜は枕に顔を埋めて嗚咽した。まさか自分がそんなドラマや映画で見たような悔し涙を流すとは思いもしなかった。

それからしばらくして、大学前にある喫茶店で先輩たちと食事していたときのこと。

私は目に入った光景に息が止まるかと思った。なんと彼女が同級生の男と二人でお茶しているではないか。しかも最高の笑顔で。

彼は有名な師範学校の出身で成績優秀。なにより車を持っているから私などとても適わない。

脳天をヌンチャクで殴られたような衝撃を受けた。間違いなく人生で最大の失恋だ。

恋愛と結婚を真剣に考えるようになったきっかけ

大学を卒業すると地元の企業に就職した。

「24時間戦えますか、ビジネスマーン♪」の歌が流行った頃で、サービス残業など当たり前、仕事に命をかけることがカッコいいとされた時代だ。

朝8時頃から夜10時頃まで仕事をして、退勤するとその足で飲みに行く。焼き鳥屋や居酒屋で酔っ払ってスナックでカラオケを歌うのがルーティン化していた。

馴染みのスナックでラストまで飲んだとき、お店のお姉さんが車で送ってくれるという。

お姉さんの車に乗せてもらい、自宅近くで降ろしてもらう間際に「真面目なんだね」とこぼされた。

ようやく「え、もしかして口説いたり、おさわりしなけりゃ失礼だったのかな?」と気づくほど鈍感である。

社会人になってからというもの、そんな風で恋愛にはあまり関心がなかった。

しかし流行に乗り遅れて読んだ漫画『めぞん一刻』(作者・高橋留美子)に共感して何かが目覚めた。

「恋愛っていいな。俺も結婚を真剣に考えてきちんとした恋愛をしなければ」との思いが強まったのだ。

やがて合コンをきっかけに今の妻と知り合い、交際数か月で結婚した。奇跡のような話しだが『めぞん一刻』の大家さんみたいにピュアな女性だった。

まさか…俺がうつ病に?

厄年の頃、あろうことか深夜に自転車で転倒してしまった。脱臼したらしく左腕が上がらない。

妻に電話でSOSを出して車に乗せてもらい、救急対応している整形外科で診てもらう。

「鎖骨骨折ですね。手術はお盆明けになります」

冷静な医師の言葉に反論もできず、病院がお盆休みを終えるまで肩の痛みに耐えながら自宅待機となった。

骨折した鎖骨をチタン製のプレートで固定する手術と、骨がくっついてから金属を取り除くためにもう一度手術せねばならない。

入退院とリハビリのための通院まで合わせて二か月ほど仕事を休むこととなった。

ようやく仕事に復帰するが、新年度の人事で営業最前線の事業所から事務系統の部署に異動となる。

事務系ではあるが福祉事業を兼ねていたからやり甲斐はあった。

およそ4年ほど務め、福祉用具専門相談員の資格を取得して将来に向けて準備した矢先、またしても事業所に戻る異動の辞令が出た。

実質は降格人事だが、勝手知ったる事業所なのでまた一からやり直すつもりで頑張ればいいことだ。そう自分に言い聞かせた。

ところが4年の歳月を経て現場は大きく変貌していた。営業スタイルが刷新され、スタッフ採用システムが導入されていたのである。

私が知るかつての営業は、相手と世間話などをしてコミュニケ-ションをとり、打ち解けたところでさりげなく靴紐でも結びながら「試しに使ってみませんか」と提案するような感じだった。

営業は向いていないと自覚していた私も、先輩たちから引き継いだほのぼのとしたやりとりが嫌いではなかった。

新しい営業スタイルは、専門の講師を迎えてその指導に沿って行う。

まずは玄関前で二度頭を下げてからチャイムを「ピンポン」と鳴らし、応答があれば「○○社の某と申します。お忙しいところ申し訳ありません。お時間少しよろしいでしょうか」というマニュアル通りの決まり文句を話さねばならない。

その後はケースバイケースでどのように進めるかマニュアルで細かく指示されていて、それに従って営業を行うというやり方だ。

従来の方法とはかなり違うため、全員が何度も何度もロールプレイングを繰り返した。覚えたらリアルに個別訪問して実践していく。

それで成果に繋がる者もいるから方針としては成功なのだろう。

「何かが違う。こんなことをやりたかったわけではない」

私のなかにはそんなやりきれない思いがくすぶって、スッキリしないまま日々を送ることになる。

さらにひっかかったのが、スタッフ採用システムだ。主に20代の若い男女をスタッフとして採用しながら、やらせる仕事の内容は正規と同じ営業である。

若くてやる気に溢れたスタッフたちは成果を出すのだが、報酬は正規職員のおよそ三分の一程度しかない。

今でこそ「派遣」が当たり前になったものの、当時はまだ定着していなかった。

私は同じ仕事をしながら報酬の格差が生まれるその現状に違和感を覚えた。

「彼らの方がよほど役立っているじゃないか。俺は給料だけ多くもらって許されるのか」

自分を責めていると仕事に対する意欲がなくなっていき、営業車を公園の駐車場に停めて時間を潰すようになる。

家庭に戻っても笑うことが少なくなり、好きな音楽さえ聴こうと思えなかった。

「これってうつ病じゃないか?」

医者に診てもらったわけではないから「うつ病」と言い切れない。でも積極性や集中力がなくなってしまい「うつ症状」を自覚した。

仕事か終えてから夜中に帰宅して駐車場に車をバックで入れようとしたときのこと。

右の後輪をコンクリートの壁にこすって「ガリガリ」と派手な音がしてから、しまったと気づくほど疲弊していた。

家に入ると妻が「なんか“ガリガリ”って音がしたよ」と心配したところ、娘たちが「ザリガニ?」とリアクションして笑いに包まれた。

家族の団らんに救われてなんとか過していたが事態が好転するとは思えず、やはり転職した方がいいのではないかと考えはじめた。

40代で転職し起業

20年間続けたサラリーマンを辞めた。やる気のなさが態度に出ていて目障りだったのか、退職を申し出たら私より若い上司はあっさり認めてくれた。

そんな私のために送別会を企画してくれた職場の仲間たちには感謝している。

鎖骨骨折以来、身体の不調を感じていた私は整体に興味を持った。

国家資格である柔道整復師になるには時間とお金が足りないが、整体師ならば民間資格を取得して起業できることを知る。

私は整体師を育成する講習に通い、数か月で資格をもらうことができた。なにせ資金がないから自宅の一室を活用して個人経営による整体院を開業した。

営業の経験を活かしてチラシまきを毎日続け、新聞紙の折り込み広告やHPを作成してアピールした。その甲斐があって来院してくれる人が増えるとやはり嬉しい。

しかし実績がない初心者だ。「腰痛が軽くなりました」「肩こりがスッキリ!」という感動の声が口コミで広がるわけもなく、来院者の数は頭打ちになっていった。

平日は夜の時間帯に来院する人が多く、やはり土日に集中する。ハッキリいってそれ以外の時間帯は暇だ。

整体の仕事だけでは収入が足りず、苦肉の策で副業を始めることにした。


当時は個人事業主として自宅や小さなオフィスを借りて働く、いわゆる「SOHO」ブームだった。ネットで検索するとさまざまな「SOHO」の情報が溢れていた。

しかし専用のパソコンを借りる費用が必要だったり、研修を受けるために事前にDVDを購入しなければならないという「グレー」な内容が目立った。

そんななか、あるニュースサイトでライターを募集していた。藁にもすがる思いで応募したところ「テストライティング」として1000文字程度の記事を書いて送るよう連絡があった。

運良く採用されてライターとして仕事をもらったときは48歳になっていた。

その頃はまだ「Webライター」という言葉すら耳にしなかったが、それから10年以上フリーライターとして活動を続け、今に至る。

2020年には新型コロナウイルス感染症の流行によって緊急事態宣言が発動されたため、私も整体院を休業。それを機にライター業へとシフトチェンジした。

noteとの出会い

Webライターといっても仕事の内容はさまざまだ。ニュースサイトに記事を提供(実質は採用してもらう)したり、企業や個人の依頼を受けて指定された案件の記事を書く「外注ライター」などがある。

原稿料はピンキリで、基本的に景気の影響を受けやすい。近年はそれまで続けてきた案件がストップしたり、契約解除となるケースが少なくない。

私もWebライターによる報酬が減った。しかしそれよりも深刻な問題は、長年書いていると仕事がマンネリ気味になってしまうことだ。

事実、このところモチベーションが続かず危機感を覚えていた。

誰でも「クリエイター」として文章や画像などのコンテンツを投稿することができ、その作品を読者として楽しめるメディアプラットフォーム「note」を知ったのは2021年6月のこと。さらに本格的に記事の投稿をはじめたのは2023年10月からとなる。

すでに還暦を過ぎていたが、小説やエッセイに挑戦して文章を書く本当のおもしろさを知ったというのが正直な感想だ。

Webライターの仕事は続けながらnoteで腕を磨き、いずれはプロとして「作品を世に残したい」という夢を持つようになった。

ところが思わぬ出来事が起きる。

病の発覚と闘病

昨年10月に血尿が出たため病院で検査したところ、ガンだとわかった。青天の霹靂という言葉は知っていたが、まさか自身に降りかかるとは思いもよらなかった。

入退院を繰り返して現在は通院治療を続けている。ガン闘病について詳しく触れるつもりはないが、これまで以上に残りの人生を真剣に考えるようになったことは確かだ。

作家・佐藤愛子さんの原作をもとにした映画『九十歳。何がめでたい』で、佐藤さん役を演じる女優・草笛光子さんが「死ぬときは死ぬ」と言い切るシーンがある。私はまだ還暦過ぎだが、病が発覚してその心境がなんとなくわかるようになった。

抗がん剤の副作用で集中力が続かないこともある。しかも相変わらず「自分が書いた文章を誰か読んでくれているのか」そして「どう思っているのか」と気になる。「一喜一憂」はしないつもりでもその不安から逃れきれない。

それでも私は「書きたいことを書くのだ」と思えるようになった。これまでにない前進だ。きっと病にかからねばこの境地にはいたらなかっただろう。

人間万事塞翁が馬

「人間万事塞翁が馬」は中国の故事に由来することわざとされる。

「昔、ある老人が飼っていた馬が逃げてしまった。肩を落としていたところ数か月後に足の速い優れた馬を伴って戻ってきた。すると今度は老人の子どもがその駿馬に乗っていて落馬して足を折ってしまう。ところが骨折したおかげで兵役を免れて命が助かった」という故事だ。転じて「人生何が起こるかわからない」という意味で使われる。

私は小学生の時に「怪獣映画の監督になる」と夢を持ったが実現できなかった。よくよく考えれば「映画を作るのではなく、感動を呼ぶ作品を作りたかった」のだと思う。

あれからおよそ半世紀、回り回って結局は小説やエッセイを書いて「感動を届けたい」という夢に行きついたのである。

両親は私が真面目に勉強をして有名大学に進学して一流企業に就職することを望んでいた。しかし敷かれたレールに乗ることを拒んで、ずいぶん遠回りをした気がする。

私が自ら選択したのは「告白」と「結婚」と「転職」と「note」ぐらいだ。あるいは他にも自覚せずに選択していたかもしれない。

とにかくなんらかの縁で巡り巡って本来の夢を持つことができたのだから、まさに「人間万事塞翁が馬」と言えるだろう。

妻の選択

ちなみに私は生命保険に関しては友人や知り合い、あるいは担当のセールスレディーの言うがままである。

一方、私の妻はいい加減なことが嫌いで生命保険の内容もきちんと検討する性格だ。10年ほど前、妻が私の同意を得て保険内容を「ガン、急性心筋梗塞、脳卒中」の3大疾病に更新していたところ、今回のガン発覚で役だった。

入院や抗がん剤にかかる費用は想像以上に高額だ。いずれは手術も行う予定とあって、もし3大疾病保険に変えていなかったら途方にくれていたかもしれない。

これまた「人間万事塞翁が馬」ではないか。


#自分で選んでよかったこと

※この記事は『ライフネット生命 × note × Voicyで、投稿コンテスト「#自分で選んでよかったこと」』の応募作品として書いたエピソードです。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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