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求める解は”快”からはじまる

私にとって、練習→演奏 のプロセスでいかに「快く」できるか、というところがとても大事な事になってきています。

楽曲の快い

身体の快い

如何に壁を通過していくか。
その抜け道は線のように細くて、自分にとって一つしかない。

流れは響きが整える。

快が解になるまで 待ってみます。

時間的に、空間的に。

そのための聴覚、視覚、触覚、見渡す、拾う、

例えばディミニッシュのような抜け感のない和音も行き詰まりにならないように次に来る和音のどこへ抜けていくか、を感じて組み立てること。

ある楽曲のある印象の音が、うんと後の大きな流れにむかう一つの布石であったりという解決がまだ見えてこないという時、そういうのは、理論だけではつかめるものではないと。
その音のもつ解決のつかない違和感の、どこか落とし所を探していくとそのときに働く感覚器官は、快を求めていく触肢のようなものの働きのような気がします。

それは、仕事でも同じだし、暮らしでもそうかも知れないと思います。

いつも感覚が捉えている空間と時間は、人の内、外の両方にじわりと広がっていて。

どれだけのものを拾って、何にに気づき、どれだけの道を見つけ、何をすてて、一つの快い答えへたどり着くのか。そのときの私の所在が「快い」だから、これを手放しちゃいけないはずなのです。

この「快い」は「たやすい」とは違うものです。むしろ、たやすくはない。痛みもあるものです。
でもそこへとどまって、感じ続けることからはじまる、解への具体的な一歩。

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今日は実家に行っていました。葛に絡まれていた桜、ちゃんと咲いていました。
風が渡って、吹き抜けていきました。花びらを散らしながら。







愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!