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叱るではなく怒る

子育てにしろ、教育の場にしろ、
「怒るのではなく、叱る」ことのほうが大事だ
と、学んできたような気がします。でも・・


理性的な「叱る」と感情的な「怒る」


「叱る」ほうが優位なのはどうしてかというと
”怒る”というのは、理性的ではなく、感情的で
感情をそのまま子どもにぶつけることでは
子どもは理解できないばかりか萎縮してしまから、と。

全くその通りで、
私も親が理由もよくわからず
いきなり怒り出すのに困惑したことが幼い頃よくあったし、
それを、私が親になったとき、結局おなじようにやってしまう
その苦しさはそのまままるごと子育てのしんどさでした。

そして、ちゃんと「叱る」ことのできる大人になりたいと思っていました。
でも、私はうまく「叱る」ことができない。
叱る、というのは物事の正しい方向が見えている人にできることだと
私は思っていて、でも
私は、いつも迷ってしまうのです。
本当に私が伝えたいことは正しいのか?と。
相手を自分の思い通りにしたいのではないか?と

私を教えてくださった先生たちのなかに
「叱る」技術がちゃんとあったと思う人もいました。
そこには、深い教育愛があったと今になって思います。
叱ることの奥に、ちゃんと先生のこちらをみている目があったように思います。
私に果たしてそれができるのか?
と、問うたときに、やっぱり無理だと思うのです。
だって、私は自分が正しい方に立っている自信がないのに
「叱る」という手法を使うとそれは
きっと、体裁をつくっている私と、裏の自信のない私がぶれぶれて
子どもはきっとそれを見抜くだろうと思うから。
あるいは、何かを背負わせてしまうかもしれない。

見せかけの「叱る」よりは生身の「怒る」


子供から見て
目の前の大人が本当はただ腹が立っているだけなのに
正論で威嚇してくる、こられるというのは、
抵抗できない子どもに一体何をせおわせてしまうのか
考えるとそれはとても怖いと思うのです。

だから、私は
「先生」を降りることにしたとき
無理な背伸びはやめて
「怒る」を掘り下げることにしました。
磨くというより、引き算。
怒る、というのは身も蓋もないそのままの自分を見せてしまうこと、
だと思います。
結局その自分を見るしかない。

相手と同等のところにたって、
あなたの行為に怒りを感じる、ということを見せてしまう。
たまに、です。
(しょっちゅう怒っていては、生徒に信頼される自信がない)

これは「叱るのが正しいか、怒るのが正しいか」というような
話ではないんです。
その境界線なんて、全然曖昧なもんだと思っているし、
感じ方は相対的なもので
怒っていると見えるか叱られていると見えるかは
受け取る相手にもよると思います。

私が思うのは、
「怒る」という自分丸見えの行為は
技術的なところではもうどうしようもない、
ということなんです。

無視できない場面はある

怒らずに済めばそれに越したことはないとおもいますが、でも、

子どもの「それやってるとさきへすすめない」という感情のループや
自分が楽をするために駆け引きをはじめるとき、
相手(私)に対して、明らかに不快感をもたらす言葉を発するとき・・
学びにとって邪魔になっている、
ちょっとした優越や逆に自己否定や人の話に耳を傾けない態度。
それらは真っ直ぐ音楽に浸りこむには少し厄介な癖。
(邪魔、というけれど、それは何かを学ぶチャンスでもある)

いや、そういうことだけじゃなくて、
私が今日は調子が悪い、虫の居所がどうも、というとき。
(人間なんだからそういう時もある)

人間らしく向き合うしかない、
と。
取り繕うより、もっと根っこを見ていこうと。
もちろん、感情のままをぶつけるということが
いいことじゃないことは分かっているのです。
でも感情があるから、壁を越えてもいける。
そのとき、相手より優位な位置から問いただすというのは、卓越すればありだとおもいますが、私にはそういうセンスがないと思います。

だから「それは私は嫌だ」といいます。
正しいことを言っているかどうかはわからない、でも
私はあなたに知っほしい、気づいてほしい。
私の感じていることを、感じてみて。

相手が見えているか、自分のバイアスは?


ただ、相手の急所を狙ってはいけない。
これは、叱るにしても怒るにしても基本のキ、です。
これが難しい。

そうしたら、相手を、ではなく
自分の心のありようの方を育む必要がある。
相手の急所をやりこめてしまいたいというのが人のさがだから。
怒っても良いけど、相手を見失わない。

まだ私が子育ての最中だったとき、
娘とうまく付き合う方法がわかわず
自分の怒りを抑えることができず、
そんな親の私を
身をていして、娘は私を教育してくれました。

いつもいつもそうなのですが、育てているのではなくて
育てられているんです。
そのことに気付けるかどうか、だと思います。







愛媛の片田舎でがんばってます。いつかまた、東京やどこかの街でワークショップできる日のために、とっておきます。その日が楽しみです!