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【ショートショート】冒険のはじまり
「しっかり持ってるんですよ」
わかったというようにうなづいたけど、握った白い糸は細くて頼りなく見えた。しっかり持っていても、ちょっとしたことで飛んでいてしまいそうだ。
ねだって買ってもらった真っ赤な風船は、はちきれそうな僕の心と同じようにふくらんでいる。中身はからっぽなみたいなのに、空を飛ぶためのエネルギーがまんたんにつまっている。車にガソリンを入れるように、スマホを充電するように、ふわふわと浮くためのガスがつまっているんだ。
空を見上げれば雲ひとつなかった。強くもない弱くもない風が、風船を揺らしている。旅立ちにぴったりかもしれない。
近くにいた女の子と目が合った。女の子は黄色の風船だ。ぼくと同じように空を見上げて、にっこり笑って糸を放した。女の子のそばにいるお母さんとお父さんは気づいていない。女の子は、ふうわりと空をのぼっていく風船を見つめていた。
「ああ、もう。何やってるの。しっかり持ってなさいって言ったでしょ」
お母さんの焦った声にはっとした。気づけば手に持っていたはずの風船の糸はなかった。見上げれば、黄色の風船を追いかけるようにのぼっていく。
強くもない弱くもない風が吹いてぼくの髪をゆらす。近くにいた女の子の黒い髪の毛を揺らす。日本人形のようなおかっぱだった。
「もう買わないからね」
声の方を見上げれば、怒ったような顔だけど、本当に怒ってるわけじゃないってわかる。でも、もう買ってはもらえないだろう。
「あ~あ。買ったばかりの風船、もう、空にやっちゃったのか」
「だって、気持ちよさそうだったんだもん。今日のお空は、冒険にぴったりだよ」
風船を空にあげた女の子はお父さんと手をつないで笑ってる。女の子のお父さんは、まったく怒ってないってわかる。
「それじゃあ、帰りは冒険して帰ろうか」
「海の方を走って帰ろう」
女の子のお父さんとお母さんが、にこにこ笑って女の子に話しかけている。うれしそうに笑っていた女の子が、ぼくのほうをふり向いた。それから、小さく何かを言った。
「それじゃあ、買い物して帰りましょう。お父さんが帰ってくるわよ」
ぼくはお母さんと手をつないだ。女の子の方を見ると、まだこっちを見ている。ぼくも小さくひと言だけ話しかけた。
ぼくも女の子も声を出してない。口パクだ。でも、たぶん、何が言いたいかは伝わったと思う。
(こんど一緒に)
(遊ぼう)
たぶん、合ってると思う。この公園はこどものぼくでも行ける場所だ。だから、こんど、ひとりで来てみよう。
空を見上げれば、黄色と赤の風船は見えなかった。青い空だけが広がっていた。
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