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大人が自分を前にして自分の件を自分に尋ねてこないのが嫌だった

私には甥っ子(兄弟)が二人いまして、私は性格の問題なのか自分に子供がいないからなのか、子供に対して優しい口調で高い声で話しかけるということができません。いや、できるのかもしれませんが、優しくしてやる気にならないというか「子供だから我慢できない」とか「理解できない」とか「甘やかしてあげる」とかを、個々を見ずに手放しでやることに強い抵抗があります。

子供って、子ども扱いされることそれ自体に対しどう思ってるんですかね。いやまあ、甘やかされるというか、お菓子食べていいとかゲームしていいとかそういう直接的な快楽については是と捉えられてしまうものだと思うんですけど、モノの覚えが良くなくても何かが理解できなくても「子供だもんね」って片付けられてしまうこととかは、結構腹立たしいところがあると思うんですよね。自我が芽生える前であれば「そう、子供なのでできなくても仕方ないのです」ですけど、子供同士で何かをクリアしたり達成したり競ったりすることに対しての意識が出てくると、アイデンティティ的なものを追求しようとするだろうので、一概に子ども扱いというものが子供のためになるのかどうか、結構疑問だったりします。

とはいえ大人目線で言えばハイハイができたところで「いや俺もできるし」ってなってしまうので、それは道理が通らないと思うんですけど、その子供に「次に」期待されるべきことがあって、それに近づいたり、それを目指そうという姿勢が評価されるべきタイミングで、何かを我慢することができないことを容認されたり、何かを投げ出してしまうことを許容されたりするタイプの子ども扱いというのは、もはや優しさというより諦め、放棄(どうせできるようになるだろう)に近いと思うので、やりたくない。

で、私は甥っ子についてはいうなれば他人みたいなものだと思っているので、子ども扱いを基本的に一切しない。よく「他人の子供を叱ることは、その親の方針が分からないのでダメ」とかいう価値観を見聞きすることがありますが、私から言わせてもらえば甘やかしや許容も方針と合致していないのであれば同じくらいダメだと思うんですね。電車内で走り回る子供が誰かにぶつかったときに、親は叱っているのに止めず、ほかの大人が放棄していれば、それは同じことだと思うのです。

ということで私は私のスタンスで甥っ子に指摘をするのですが、死ぬほど嚙み砕いて、理解できるように語り掛けます。そのうえで理解できないのであれば叱りもしない。冷たい目で、理解できない(のだとしても、その)言葉で叩き続けます。私はあなたを許容していませんよ、ということを徹底して指摘する。


話が逸れましたね。

要は子ども扱いというのは果たして誰のためにしているのか?ということを考えたいということなのですが、子供のためにするべき子ども扱いと、実は親の保身のためにやっている子ども扱いみたいなものがあるんじゃないのか?ということです。

やってはダメだと思っているわけではないのですが(私は常に大人が優先されるべきで問題ないと思っています。大人が精神と命を保てなければ、子供は育たない)、その使い分けというか、大人が「これは自分のための子ども扱い」と自覚して使っているか、それともないまぜにしてしまって「あなたのためを思って言っている(やっている)のですよ」と思ってしまっていないか?ということを自省するくらいはしたほうがいいのでは、くらいは言いたい。

私自身が子供のころ、私への不当な子ども扱いに辟易していた記憶があります。記憶力が良いので、小学生以前とかですら、親が自分を自転車の荷台に乗せたまま親同士で私のことを褒めたりけなしたりしていたたまれなくなったりしたことをハッキリと覚えていますし、いとこの中で最年少だった私へ話しかける口調だけが妙にゆっくりはっきりしていたこと、理屈っぽくて泣き虫なことを弄られたこと、どうせ分からないだろうと思って大人同士が子供を前にしてしていた妙な会話等、肌に染み込んで洗い流せなくなっています。

なんでしょう、そういう扱い全体が、子供の性格を決定づけているのだと思うと、子育てというものの難しさを強く感じます(子供いないんですけど)。甥っ子がいつか、10年後くらいに、私から今聞いている言葉をふと思い出して、何かの助けになるといいなあと願いながら働きかけてみるようにしています。ちょうどこのnoteで私がやっていることと同じことを、身近な人間たちにもやってみようと、思い至った次第です。

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