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結婚披露宴という恥晒しイベントと真正面から向き合う

釣りタイトルっぽい感じになってしまって恐縮だが、一応本音ではあるのでそのまま書いてみた。

私事で恐縮だがこの間結婚させていただき、さらに恐れ多いことに、最近結婚披露宴を開催させていただいた。友人や家族を招待して、ものすごい高価な服を身に纏い、皆々様へ食事を振る舞い、夫婦初めての共同作業(?)を行ったりする、あの披露宴である。


端的に、私は結婚披露宴を開催することにかなり消極的だった。消極的どころか、少々マイナスの気持ちがあった。

そもそも、結婚というもの自体が今の時代の風潮にあまり嵌まっていない。
誰かと人生を重ね合わせて、生活を適宜依存したりすること自体が現代的でない。結婚って祝福されるものかどうかそれ自体が微妙では?結婚が良いことなのであれば結婚していないことは良いことではないということになるのか?

妻は夫婦別姓派で、私も同姓になることが本当に二人にとって幸せなのか微妙だし、そもそも二人とも生まれてからずっと一緒だった名前を変えさせられるというのがそもそも異常では?と思っている。よく「子供がかわいそう」とか言われるが、誰も奇異な目で見なければ可哀想なわけがない。自分自身の名前に帰属意識があるのは結構だが、親はただその存在にこそ帰属意識が生まれて然るべきで、親が親的であるのに苗字なんか関係ないだろと思う。


まあ、といった風に結婚というものに対する捉え方は、我々はかなりドライで、その中での「披露宴」であるから、どうしたって「ウーン」である。

妻はファッションやかわいいものに強い興味があるのと、何よりシンプルに外見が魅力的人間であることもあって、ドレスを着たりパーティを開催したりすることについてのモチベーションがしっかりしている。そういう意味では「披露」する場だと思っているかはさておき、楽しいパーティをすること自体に喜びを感じており、披露宴に対してはけっこう前向きである。

言ってしまえば妻の要望で結婚披露宴を開催することになったともいえる。妻がやりたいとのことなので、ネガティブな気持ちは押し殺して、消極的ではあるが開催することには問題ないですよ、というスタンスで、一緒になって会場選びを始めた。
ホテル、専用会場、レストラン会場等、選択肢は多岐にわたるわけだが、そもそも他人の結婚披露宴にほとんど出席したことが無かったので、妻に色々と教えてもらいつつ、かといってそこまで興味が無いせいで何度か同じことを聞いてしまったこともあった。多分。(ごめんなさい)


いくつか見て、料理がどうだとかコスパが悪いとか言って頭を抱えり、専用会場のハリボテ感にがっかりしたり、ド派手な装飾に辟易したり、多くの壁にぶつかり、会場決めすらままならずにストレスを感じていた時、
そもそも結婚披露宴に対してネガティブな感情を抱いているのに、結婚披露宴を開催するというのは、果たしてどういうことなのか?
ということが全く哲学できていないことに気が付いた。

やることは決まっている。しかしその理由が「妻がやりたいから」だけではないはずである。妻をきっかけにしても、やることを選択している以上、自分の中に「披露宴をやるべきだ」という考えをしっかり持たなくてはいけない。
(本当にネガティブが勝つなら、私は妻を押しのけてでもやらないことにしようとする。もちろん妻の気持ちを尊重している自意識はあるが、自分の哲学に全く当てはまらないことは、私は絶対に譲らない)


整理すると、
・私は結婚披露宴に対してネガティブな感情を持っている
・そもそも結婚それ自体にネガティブな感情がある。手放しで祝福して然るべきとも、そう思わない。
(「おめでとう!」って、何も知らないで良く言えるな、とすら思う。いや私も言っちゃうから非難でも世捨て人でもないけど、一瞬頭をよぎる)

そもそも絶対的にポジティブと言えない行為であるところの結婚を、更に夫婦の経歴や価値観、外見を「披露」する場というのは、いったいどんな顔をしてやれというのか。
そして「披露」される側(=招待される側)の中に、同じような考え方を持っている人は少なくないんじゃないか。もちろん友人のことなので祝福ムードではあるだろうけれど、手放しでただただ祝福する話ってわけでも無いよなとそう思っている人もいるのではないか。

それどころか、そう思っていてほしいという気持ちが、むしろ私の中にある。友人たちが私の結婚という行為を手放しで祝福するような人たちだとは思っていない。だってこんな私の友人なのだから。類は友を呼ぶ、似たような価値観を持っているからこそ仲良くなっている人も少なくないから。

それにもかかわらず結婚披露宴に招待するという矛盾を、私はどうやって乗り越えるのだろうか?

でも結婚披露宴はやる。やりたい。

では、やるからには、私と同じようなことを考えている人たちですら、楽しめるように努力する義務が私にはあるのではないだろうか?

自分のコントロールできる範囲が小さいようでは、自分の意志が反映されていない披露宴に自分の友人を招待するようなことがあってはいけないのではないか?

つまり、結婚を手放しで喜ぶものだとも思えない価値観を持った人間が、同じような価値観を持った友人を招待するのに相応しい結婚披露宴にしなくてはいけない、そうする義務があるのではないだろうか?

私はそう考えた。



この瞬間、私の結婚披露宴に対するスタンスが確立したのである。

私には、私よりもひねくれている友人たちを楽しませる義務があるのだ。



とはいえ、主役は妻、もとい私である。親族の溜飲を下げるべく、また当人(特に妻)のやりたいことを止めてしまっては、そもそも結婚披露宴としての様相を呈さなくなってしまう。そもそもの開催目的はそこであるから、トラディショナルな結婚披露宴的要素が多少入ってしまうことは仕方ない。

だが、たとえば尺はどうだろう?料理には力を注いでいるか?地理的利便性に問題はないか?日程に不都合はないか?退屈しない構成になっているか?動画の本数と尺に問題はないか?

主役でありながら主役的でない演出ができるか?
真の主体がゲストに在るか?

妻も「披露」はしたかっただろうと同時に、おもてなしの感覚を強く持っていたので、私はそれに更に感化された。やるからには楽しんでもらって、満足してもらって帰したい。


そして「ああ、こんな結婚披露宴であれば、あんな人間でもやりたがった意味がよく分かった」と思ってもらえるような内容にしたい。あわよくば「これなら私も結婚披露宴をやってみたい」と思われるようにしたい。

さらに言えば、それくらい思われる会にできないのであれば、むしろやる意味すらないのではないか。

そんな結婚披露宴を目指すことにした。


こうして私は、結婚披露宴の準備というとても険しい道を妻と共に歩んできた。半年間ほどものすごい回数の打ち合わせ、作業、買い物を繰り返し、ようやく開催することができた披露宴である。

主役としてというより、企画立案&成果物作成者としての喜びがひとしおという感じであったが、どうだろう、きっと大いに意味のある披露宴になったんじゃないかなと思う。
端的に楽しかった。ゲストも(それこそシンプルに美味しい食事に全力をかけたので)楽しめただろうし、嫌みもなく、ただただおもてなしができたんじゃないかなと自負している。


頻繁に「新婦が主役」「新郎は脇役」「新婦ばかりが頑張って、新郎は全然やる気が無くて喧嘩した」「準備が大変で揉めた」といったことを聞く。

私個人の感覚では、今でも妻が主役だったとは思っているが、しかし企画者として、新婦を全力で立てつつ、ゲストを全力でもてなすために考えを巡らせられない夫のなんと残念なことだろうと思う(勿体ない、楽しいのに、という意味で)。
正直、仕事よりきつかったが、仕事より楽しかった。達成感だらけである。数日経っても余韻が消えない。

準備が大変で揉めるのは、仕事/作業と捉えれば当然だし、そうでなくても日常何かを決めるにあたっては家族だろうと議論が発生するのは当然だろう。揉めて揉めて、ようやくいいものをひねり出すのである。それが企画というものであり、イベント運営というものである。


終わって数日経つが、ああ楽しかった、というのが感想である。

久しぶりに会えた友人たちとも話ができた。
さらに言えばそれすら我々は脇役で、我々の結婚披露宴を契機にして友人同士が久しぶりに会えて、話せて、美味しい食事をしてもらいつつ、まあ多少我々のプロフィールを眺めてもらえたりすればいいな、くらいだったが、まさにそれを実現することができた。


これから披露宴を開催する人たちの参考になる記事とは到底いえないが、結婚披露宴をやるか否か悩んでいる人にとっては多少参考になるんじゃないかなと思う。

特に「パートナーがやりたがっているけれど自分はあんまり…」な人は、是非参考にしていただきたい。
(無論、やることが正義なんてことは絶対にない。やりたくないけどやるに倒れるなら、むしろ腹をくくって全力投球すべきというだけのお話である)

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